コメディアンやパフォーマーとして活躍した南部虎弾さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、南部虎弾さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。

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南部虎弾のデビューのきっかけや時期は?

南部虎弾さんは高崎経済大学中退後、大手生命保険会社の営業マンを経て22歳で渡仏し、ボランティア活動をします。帰国後、劇団「テアトルエコー」の養成所に入団し、黒澤明監督の映画「影武者」にて役者デビューを果たします。その後、芸人として活動を開始し、劇団で出会った上島竜兵さん、寺門ジモンさん、肥後克広さんとともに「キムチ倶楽部」を結成。南部さんがリーダーとなったグループは1985年「ダチョウ倶楽部」に改名します。

俳優としてデビューしていたんだね!
南部虎弾の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

南部虎弾さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
南部虎弾さんは1951年7月14日山形県鶴岡市で生まれます。本名は佐藤道彦(さとう みちひこ)さんといいます。実家は自転車屋を営んでおり、けして裕福な家庭ではなかったといいます。芸能界にも興味がなかったそうで、お笑いや芸人など夢にも思わなかったと語っています。
その芸風から、派手なイメージのある南部さんですが、意外にも素朴な一面があるのかもしれませんね。もしコメディアンになっていなければ「売れないファッションデザイナーか認められない工芸アーティスト」になりたかったそうです。

芸術家の気質が強そう!
10代

南部虎弾さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1964年(13歳):鶴岡市立第三中学校に進学
- 1967年(16歳):山形県立鶴岡南高等学校に進学
- 1970年(19歳):高崎経済大学に進学
1964年、地元の鶴岡市立第三中学校に進学します。中学時代のエピソードはあまり残されていませんが、ご本人のX(旧Twitter)では中学時代と思われる学生服姿の南部さんの写真が投稿されています。
南部の中学生の頃〜
— 南部虎弾 (@nanbutorata) March 22, 2017
うちの実家鶴岡市の〜
〜自転車店『佐辰輪店』〜映画『おくりびと』に出てくる『鶴の湯』は歩いて5秒。決して裕福ではなかった。
まさかこんな人生を歩むとも考えたことがなかった。
1ミクロンも考えてなかった。
『お笑い』や『芸人』「芸能人』など夢にも思わなかった。 pic.twitter.com/VqTEseVvDO
1967年、山形県立鶴岡南高等学校に進学します。1877年に開校し地元では古くから知られる進学校で、多くの研究者や政治家、文化人を輩出しています。高い学力があったことがうかがえますね。
1970年、群馬県高崎市にある公立大学、高崎経済大学に進学します。南部さんは大学在学中に空手をやっており、空手道部のレギュラーで空手二段の腕前だったそう。しかし、のちに中退をすることとなります。
10代の頃についてはあまり語られていませんが、その経歴から、勉強熱心で空手にも打ち込む努力家だったことがうかがえます。

真面目な性格だったのかもしれないね!
南部虎弾さんファンに聞いた、南部虎弾さんの10代で印象に残っている出来事


空手の段位を取得する。過激なパフォーマンスが注目されがちですが、そのパフォーマンスに耐えられる身体能力もさそがし高かったんだろうなということが伺えたから。(20代女性)

高崎経済大学を中退したという話を聞いてやっぱり芸能人になる人はどこかで踏ん切りをつけてしまうんだなと思いましたね。(30代男性)

高崎経済大学に入学したことです。そのキャラ性から大学等には行ってなさそうに感じたので、実は大学へ入る程頭がよいんだと驚きました。(50代男性)
20代

南部虎弾さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1973年(22歳):渡仏する
- 1976年(25歳):ギターの弾き語りでアルバイト生活
- 1980年(29歳):映画「影武者」に出演し俳優デビュー
1973年、大学を中退した南部さんは、大手生命保険会社の営業マンを経て22歳でフランスへ渡ります。自身の誕生日が「パリ祭の日」だったため、少年時代からフランスに行くのを夢見ていたそうです。しかし目的があったわけではなく、アルバイトなどをして半年後に帰国します。
「経由したモスクワでは列車に無賃乗車だったので地下の防空壕を逃げてポーランドに出てパリに着いた。山中の小学校にいたら、ボランティア団体関係者に誘われ参加し、ブドウの収穫のバイトなどもした。永住したくなったけど、職業がないとダメだというので半年後、帰国したんです」
引用元:東スポWEB
1976年、イタリアンレストランでギターの弾き語りのアルバイトをしながら生活します。目標は「松崎しげる」さんだったとか。その当時は、お金もなく三畳間で風呂無しの生活を送っていたようです。
1980年、黒澤明監督の映画「影武者」に出演し、俳優としてデビューします。雑兵役での出演でした。オーディションでは、「黒澤監督のためなら命もいりません」と宣言したのが気に入られ、出演を果たしたそうです。
一度就職したものの、夢を叶えるためフランスに旅立ち、その後はアルバイト生活をし、突然黒澤明監督の作品で映画デビューと激動の20代を過ごしていた南部さん。夢に向かって真っすぐな姿勢はなかなか真似できませんね。

自分らしく突き進んでるね!
南部虎弾さんファンに聞いた、南部虎弾さんの20代で印象に残っている出来事


第一生命にて営業を担当。奇抜な装いで活動されていた芸人さんなので営業マン時代がイメージつかなかったから。(20代女性)

ダチョウ倶楽部のリーダーとして活躍していた姿に意外性がありました。正直お笑いをしているイメージがなかったのでびっくりですね。(30代男性)

劇団「テアトル・エコー」に参加したことです。ここへ所属して南部さんはお笑い力を身に着けたりしたんだなと印象に恩顧りました。(50代男性)
30代

南部虎弾さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1985年(34歳):「ダチョウ倶楽部」として活動開始
- 1987年(36歳):「ダチョウ倶楽部」を脱退
- 1990年(39歳):「電撃ネットワーク」を結成
1985年、上島竜兵さん、寺門ジモンさん、肥後克広さんとともに活動していた「キムチ倶楽部」を改名し「ダチョウ倶楽部」として活動をスタートさせます。当時、南部さんは「ダチョウ倶楽部」のリーダーを務めていました。ダチョウ倶楽部はフジテレビ系「ひょうきん予備校」などに出演する人気グループとなります。
1987年、「ダチョウ倶楽部」を脱退します。脱退の理由としては芸風や方向性の違いから、「クビ」になったというのが実状のようです。しかしその後、三人との関係性は良好だったのだとか。
ダチョウの3人は、事前の根回しもなしに大物に失礼ばかりする僕の言動に、次第に『僕たちは知りません』と言うようになっていた。きちんとした芸でやっていきたかった3人と、僕は外れていってクビになったのが本当の話
引用元:東スポWEB
1990年、「電撃ネットワーク」を結成します。「電撃ネットワーク」は過激な体を張った芸で有名になります。缶ビールを額にくっつけてグラスに注ぐ芸から過激さは増し、ロケット花火を口にくわえて点火するなどの他、ドライアイスやサソリ、ピラニア、ミミズを食べる芸も披露していました。
「ダチョウ倶楽部」でもその言動で周囲を驚かせてきた南部さんですが、脱退し「電撃ネットワーク」を結成してからはさらにインパクトのあるパフォーマンスで話題を呼びました。

破天荒な南部さんだけど意外にも緊張しやすい性格だったとか!
南部虎弾さんファンに聞いた、南部虎弾さんの30代で印象に残っている出来事


ダチョウ倶楽部の初代リーダーを務める。私が物心ついた頃には3人組グループとなっていて、結成当時の形を知らなかったから。(20代女性)

電撃ネットワークとして活動している姿が一番印象深いですね。このグループの象徴的なキャラなのですごく目立っていましたね。(30代男性)

ダチョウ倶楽部を結成し、リーダーを務めていたことです。ダチョウ倶楽部といえば3人組という印象が強いですけど、最初は南部さんを含めた4人組だったんだと知って驚きました。(50代男性)
40代

南部虎弾さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1991年(40歳):LAの人気番組 ベスト・オブ・ザ・ワーストに出演
- 1992年(41歳):カナダの世界的コメディフェスティバル「ジャスト・フォー・ラフス」に出演
- 1997年(46歳):ニューヨーク・オフブロードウェイに進出
1991年、デーブ・スペクターさんの紹介により、LAの人気番組 「ベスト・オブ・ザ・ワースト」に出演します。これが世界進出のきっかけとなります。「電撃ネットワークじゃ外国人は発音できないから」という理由からこの時、デーブさんが「TOKYO SHOCK BOYS」と命名したそうです。
1992年、カナダの世界的コメディフェスティバル「ジャスト・フォー・ラフス」からの招待をうけ出演し、大成功を収めます。この出演を機に、世界中から出演依頼が入るようになり、本格的に海外進出します。
1997年、ニューヨーク・マンハッタンにある小劇場、オフブロードウェイに進出します。「TOKYO SHOCK BOYS」として、3か月で71公演という日本人で初めてとなる快挙を成し遂げました。
40代では、「TOKYO SHOCK BOYS」として本格的に海外進出し高い評価を得た南部さん。国内では、その過激さから敬遠されがちだったパフォーマンスが、欧米諸国では人気を博しました。

他にはない個性が海外で評価されたんだね!
南部虎弾さんファンに聞いた、南部虎弾さんの40代で印象に残っている出来事


「トーキョー・ショック・ボーイズ」としてオーストラリアを中心に活動。南部さんの芸は海外でも人気があったそうだから。(20代女性)

テレビ番組でエキセントリックなことをしていた姿が格好良かったです。ドライアイスを口に含んでいた姿に驚きました。(30代男性)

「トーキョー・ショック・ボーイズ」として海外進出したことです。以降日本で活躍している姿はほぼ見かけなくなったものの、海外ではすごく頑張っているんだと驚きました。(50代男性)
南部虎弾の若い頃の髪型は長めのパーマヘア

南部虎弾さんの若い頃の髪型といえば、長めのパーマヘアを思い出す方も多いのではないでしょうか。
南部虎弾さんの若い頃☺️アイドルみたいな雰囲気✨ pic.twitter.com/QjdrjZdndt
— sora3 (@miiu1_n) February 7, 2025
電撃ネットワーク時代の奇抜な髪型とは正反対な、さわやかな印象ですね!
南部さんが20代だった1970年頃はロックやフォークのミュージシャンを中心に長めのヘアスタイルが流行していました。弾き語りのアルバイトをしていたこともあり、そういったミュージシャンテイストの髪型を好んでいたのかもしれません。

アーティストっぽい雰囲気!
まとめ

今回は、南部虎弾さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
2024年1月20日にこの世を去った南部虎弾さん。国内外問わず多くの人々を魅了したパフォーマーであり、その活躍はファンの心に生き続けると思います。
