元プロレスラーで現在はタレントなどとして活躍する武藤敬司さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、武藤敬司さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
武藤敬司のデビューのきっかけや時期は?
子供の頃から柔道をしていた武藤さんは専門学校卒業後、柔道整復師として働きます。しかし、ある時プロレスラーに興味を持ったことをきっかけに、レスラーが多く通っていた接骨院の院長から新日本プロレスを紹介されます。
そして1984年、新日本プロレスに入門。入門したもののあまりの練習の厳しさから、当時のコーチだった山本小鉄さんに一度「やめます」と伝えたそう。しかし、他の選手がやめる際には引き止めなかった山本さんが武藤さんに対しては「もう少し頑張ってみろ」と言ってくれたことから、期待されていると感じ、プロレスを続けることにしたそうです。そして入門からわずか半年後にデビューを果たします。
実際、小鉄さんに「やめます」と伝えたんです。そうしたら、ほかの選手がやめるときは引きとめなかったのに、俺には「もう少し頑張ってみろ」と言ってくれました。「もしかしたら期待されているのかな」とうれしくなって、それで続けることにしたんです。あのとき引きとめてくれなければ、今の武藤敬司はないわけで、小鉄さんにはすごく感謝しています。
コーチは武藤さんのレスラーとしての素質を見抜いていたのかも!
武藤敬司の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
武藤敬司さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
武藤敬司さんは1962年12月23日山梨県富士吉田市で生まれます。出生時の体重は4000gもあったそう。生まれてすぐから体格に恵まれていた武藤さんは小学2年生の時に、ドラマ「柔道一直線」を見て柔道を習い始めます。運動神経も抜群で、小学校5年生で柔道と並行して少年野球チームにも入り、エースで4番を任されたそうです。
体格、運動神経ともに恵まれていた武藤さん。野球までやっていたのは意外ですね!子供時代も目立つ存在だったのではないでしょうか。
出生体重の平均は3000gほど。大きな赤ちゃんだったんだね!
10代
武藤敬司さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1975年(13歳):富士吉田市立下吉田中学校に進学し柔道部に入部
- 1978年(16歳):山梨県立富士河口湖高等学校に進学
- 1981年(19歳):東北柔道専門学校に進学
1975年、富士吉田市立下吉田中学校に進学した武藤さんは最初野球部に入部するも、すぐに柔道部へと転部します。そして中学校3年生で初段黒帯となり、同時期に山梨県大会の団体戦で1位になります。
1978年、山梨県立富士河口湖高等学校に進学し、国体に出場します。その強さから、いくつかの大学から誘いがあったといいます。しかし柔道を教わっていた接骨院の先生の影響で柔道整復師を志し、高校3年生の時には専門学校に進学することを決めたそうです。
1981年、柔道整復師の国家資格取得を目指し、東北柔道専門学校に進学します。2年間の寮生活を送りながら柔道も続け、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95キロ以下級で3位になり全日本の強化指定選手に選ばれます。ところが、国家資格取得のため、その練習には1回も行かなかったとか。柔道整復師になるという意思が強かったんですね。
柔道一筋の10代を過ごした武藤さん。柔道整復師の道を選んだのは、柔道の恩師でもある接骨院の先生の羽振りの良さに夢を感じたことも一因なのだとか。
少しでも柔道に関わっていたいという思いもあったみたいだよ!
武藤敬司さんファンに聞いた、武藤敬司さんの10代で印象に残っている出来事
子供のころからパワフルで運動ができたという話が印象的です。小学生のころからムーンサルトが出来たというのがすごい。(30代女性)
東北柔道専門学校に入学したということが意外でした。最初からプロレスに関わっていたわけではなかったんですね。(30代男性)
中学校3年生で柔道の初段黒帯を獲得したことです。中学生の頃から格闘センスは高く、また努力もしていたんだなって印象に残りました。(50代男性)
20代
武藤敬司さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1984年(22歳):新日本プロレスに入門し、半年後にデビュー
- 1985年(23歳):米フロリダに遠征
- 1988年(26歳):プエルトリコに遠征
1984年、新日本プロレスに入門します。厳しい練習から一時は辞めることも考えたそうですが、なんとか思いとどまり半年後にデビューを迎えます。デビュー戦の相手は同期の蝶野正洋さんでした。武藤さんは「逆エビ固め」という技で蝶野さんに勝利しています。
1985年、アメリカフロリダに遠征し、「ホワイト・ニンジャ」のリングネームで活動します。翌年、NWA USジュニアヘビー級王座を獲得します。フロリダでは大型選手が多く、武藤さんが広めた月面水爆(ムーンサルトプレス)はとても重宝がられたといいます。
1988年、一度帰国した武藤さんはプエルトリコへ二度目の海外遠征をします。同年、インベーダー1号からTV王座を、さらにミゲル・ペレス・ジュニアからプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取します。その後、NWAのジム・クロケット・プロモーションズへスカウトされ、「グレート・ムタ」として、ヒールのポジションで活躍しました。またこの年、橋本真也さんと蝶野正洋さんとともに「闘魂三銃士」が結成されます。
日本だけでなく海外でも大活躍のしていた20代、多くのタイトルを取り人気の絶頂を迎えます。
新日本プロレス入門からわずか数年でこの活躍ぶりはすごいね!
武藤敬司さんファンに聞いた、武藤敬司さんの20代で印象に残っている出来事
プロレスデビューする。身体が大きくて強そうなインパクトがすごくてかっこいいなぁと思ったのを覚えています(30代女性)
プロレスラーとして大活躍を果たしたという事を知ってやっぱり感心させられますね。自分では到底できない事をしているので尊敬できます。(30代男性)
新日本プロレスへ入門したことです。これがプロレスラー武藤敬司としての第一歩となったわけですし、印象に残りました。(50代男性)
30代
武藤敬司さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1995年(33歳):プロレス大賞MVPを受賞
- 1997年(35歳):ムタとして「nWo JAPAN」に加入
- 2001年(39歳):史上初の六冠王者になる
1995年、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也さんを破り第17代IWGPヘビー級王者となります。同年、同じく橋本真也さんを破りIWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となります。さらに東京ドームで開催された「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」のメインイベントでの高田延彦戦でも勝利を果たし、これらの功績からプロレス大賞MVPを受賞します。
1997年、グレート・ムタとしてnWo JAPANに加入します。その後のシリーズから「nWo JAPANのムタ」としてG1に参戦するなど活躍しましたが、膝の故障などが重なったことからムタをやり切ることに限界を感じ、のちに武藤としてnWoに加入します。nWoは「nWo Tシャツ」だけで6億円の売り上げを記録するなど一大ムーブメントを巻き起こします。
2001年、三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座を奪取し史上初の六冠王者となります。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトで、その時点で保持していないのは過去に武藤さん自身も保持していたIWGPヘビー級王座のみとなります。さらに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦も制して同年のプロレス大賞MVPに選ばれます。
2001年に新日本プロレスに復帰するなど日本での活動がメインとなっていた30代。武藤さんはその人気を不動のものとします。
すごい強さだったことがわかるね!
武藤敬司さんファンに聞いた、武藤敬司さんの30代で印象に残っている出来事
IWGPヘビー級王座になる。年々強くなりパワーアップする姿に驚きましたし、かっこいいなぁと惚れ惚れしてしまう(30代女性)
バラエティ番組で活躍している姿にすごくテンションが上がりました。それによってモノマネの方も増えたのが印象的ですね。(30代男性)
第17代IWGPヘビー級王者になったことです。一時期スランプにもなっていましたけど、ここに武藤あり!と印象付けた出来事だけに驚きました。(50代男性)
40代
武藤敬司さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 2002年(40歳):全日本プロレスに移籍、社長就任
- 2008年(46歳):プロレス大賞MVPを史上最年長で受賞
- 2010年(48歳):変形性膝関節症の手術を行う
2002年、1月の東京ドームでの試合を最後に新日本プロレスを退団し、全日本プロレスに入団します。移籍直後のチャンピオン・カーニバルでは初出場にして優勝を果たします。同年10月、馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となりました。
2008年、7年ぶり4度目となるプロレス大賞のMVPを史上最年長で受賞します。この年、武藤さんは1999年以来のIWGPヘビー級王者に返り咲き、さらに全日本プロレスではグレート・ムタとして三冠王者になります。これらの活躍ぶりが評価されてのMVP受賞となりました。
2010年、武藤さんはかねてより痛みを抱えていた膝の手術を行い長期欠場を余儀なくされます。手術は成功し約5ヶ月後、船木誠勝さんとのシングルマッチで復帰を果たします。膝の故障について、武藤さんは「ムーンサルトをやりすぎた」と語っています。
40代では全日本プロレスの社長に就任するなどベテランとして若手を引っ張っていく立場になった武藤さん。一方選手としても最年長でMVPを受賞するなど活躍し、2000年以降には俳優として映画やドラマにも多く出演しています。様々な活動を通してプロレスを広めた功績も大きいのではないでしょうか。
テレビでも大活躍!強面と面白さのギャップが魅力的だね。
武藤敬司さんファンに聞いた、武藤敬司さんの40代で印象に残っている出来事
40代でも現役なことがすごい。引退を考える年齢なのに武藤さんは年々パワーアップしてきてすごいと思いました。(30代女性)
ドラマにも参加していた事を知り驚きましたね。ほとんど演技のイメージがなかったので真剣に芝居をしている姿にちょっと面白さがありました。(30代男性)
タッグリーグ戦に優勝した勢いで世界タッグ王座を獲得したことです。強いプロレスラーだとはわかっていましたけど、タッグまで世界の頂点を狙える実力とは思ってもおらず印象的でした。(50代男性)
武藤敬司の若い頃の髪型は襟足長めのショートヘア
武藤敬司さんの若い頃の髪型といえば、襟足が長めの髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。
武藤敬司さんの若い頃に似てると言われる事多数🤭
— みるたん⌘ (@shiller1960) October 3, 2024
日本人全レスラー名鑑より pic.twitter.com/d5gbhXPxcf
レスラーとは思えないとてもさわやかな印象ですね。そのイケメンぶりから当時はジャニーズ系レスラーと呼ばれていたのだとか。
武藤さんの若い頃は、吉田栄作さんのような長めの前髪をサイドに流すスタイルが流行していました。しかし武藤さんの場合は流行を追わず独自の髪型を貫いているように見えますね。長めの襟足がジャニーズ系というイメージを際立たせているのではないでしょうか。
今のスキンヘッドからは想像できないね!
まとめ
今回は、武藤敬司さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。