フランスの俳優として活躍したアランドロンさん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、アランドロンさんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
アランドロンのデビューのきっかけや時期は?
1957年22歳の時、当時から美貌が際立っていたドロンは、女優のブリジット・オベールにカンヌ国際映画祭開催中にカンヌを歩けば、監督の誰かから声がかかるかもしれないと助言されます。そして実際に映画祭開催中にカンヌを歩いたドロンはエージェントからスカウトを受けます。
当初はハリウッドデビューをもちかけられていたそうですが、「自分はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」といい、その後フランス映画「女が事件にからむ時」でデビューを果たします。
人目を引く美しさだったんだね!
アランドロンの幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
アランドロンさんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
1935年11月8日、パリ郊外のセーヌ県ソーで、映画館を経営する父と薬剤師の資格を持つ母の間に生まれます。4歳で両親が離婚し一時は里子に出され、のちに母方に預けられるも、再婚した義父と合わなかったことや母親が新たに生まれた娘だけを可愛がったことから孤独な幼少期を過ごします。
こうした家庭不和による愛情不足から、ドロンはたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とします。
その後の華々しい活躍からは想像できない、孤独な幼少時代の経験があったんですね。
つらい子供時代だったんだね。
10代
アランドロンさんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1945年(10歳):母親に引き取られる
- 1949年(14歳):食品店で働き始める
- 1952年(17歳):フランス海軍へ入隊
1945年、両親の離婚後里子に出されていたドロンは、再婚した母親に引き取られます。しかし母親と再婚相手の間には娘が生まれており、両親から愛情を受けることなく孤独な生活を余儀なくされます。
1949年、14歳の頃には食品店で働き始めます。寄宿学校を転々とするなど、学校での生活に問題を抱えていたドロンは若くして自立の道を選んだのかもしれません。
1952年、17歳でフランス海軍へ志願し入隊します。未成年者の入隊には保護者の承諾が必要でしたが、母は義父の言うがままに承諾。この一件で、ドロンは母に対し不信感を持ってしまったといいます。入隊後は、マルセイユから貨物船に乗せられ、第一次インドシナ戦争へ従軍することになります。
過酷な幼少期を経て、若くして仕事を始めたり軍への入隊を望んだアランドロンさん。10代は自分の居場所を模索していた時代なのではないでしょうか。
10代にして色々な経験をしたんだね!
アランドロンさんファンに聞いた、アランドロンさんの10代で印象に残っている出来事
フランス海軍に17歳で入隊したということを知って本当に驚きました。イケメンの代名詞として使われることしか知らなかったのでびっくりです。(30代男性)
17歳で入隊し、戦地に行っていたことが衝撃的で印象に残っています。平和な世の中に生きている私たちにとっては、信じられないと思ってしまいました。(30代女性)
フランス海軍へ志願して入隊したことです。見た感じイケメンな優男って雰囲気ですけど、実は軍人上がりだったという一面があるんだと驚きました。(50代男性)
20代
アランドロンさんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1957年(22歳):ハリウッドの有名エージェントにスカウトされデビューする
- 1960年(25歳):映画「太陽がいっぱい」で主演を務める
- 1964年(29歳):女優ナタリー・バルテルミーと結婚
1957年、国際映画祭開催中のカンヌを歩いていたところ、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの有名エージェント、ヘンリー・ウィルスンにスカウトされ、フランス映画「女が事件にからむ時」でデビューを果たします。
1960年、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」で主演を務めます。映画はイタリアの作曲家ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られることとなります。同時に日本でもドロンの人気が爆発します。
1964年、女優のナタリー・バルテルミーと結婚し、息子アントワーヌが誕生します。この年には家族3人でビバリーヒルズに滞在しながら、いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターも務めました。
20代にはデビューを果たし、数々の映画に出演。アランドロンさんは一気に世界的人気俳優となっていきます。美しい容姿だけでなく、俳優としての素質があったのかもしれませんね。
太陽がいっぱい
— たんぽぽ (@Edy00118558) December 20, 2020
イタリアに富豪の息子を連れ戻す為にやってきた貧しい青年トム。当時20代のアランドロン。圧倒的美貌なんだけどどこか仄暗い闇を秘めているような所があって完全犯罪を狙う青年役はぴったり。
60年前の作品だが古さは感じない。美しいイタリアの風景や物悲しいテーマ曲も印象的な名作 pic.twitter.com/YR4T9LqRF8
デビューからまもなく世界中に知られるスターになったんだね!
アランドロンさんファンに聞いた、アランドロンさんの20代で印象に残っている出来事
若者のすべてという作品での繊細な芝居が本当に魅力的でしたね。葛藤などを顔だけで表現していて本当にすごかったです。(30代男性)
「若者のすべて」という映画が印象的でした。映像を見た時に、あまりのハンサムさにビックリしたから覚えています。(30代女性)
ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄したことです。同棲までしたのに別れることになるなんて、アランドロンさんでも女性関係がうまくいかないことがあるんだと驚きました。(50代男性)
30代
アランドロンさんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1967年(32歳):映画「サムライ」で主演を務める
- 1971年(36歳):映画「レッド・サン」に出演
- 1972年(37歳):ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞特別賞を受賞
1967年、フランス・イタリア合作映画「サムライ」で主演を務めます。同作では妻であるナタリー・ドロンと共演。ナタリーの映画デビュー作品となります。しかし女優を続けたいというナタリーと対立し、のちに二人は離婚することとなります。
1971年には、フランス・イタリア・スペイン・アメリカ共作の映画「レッド・サン」に出演します。この映画は、三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロンといった世界3大スターが共演した異色の西部劇となりました。
またこの映画共演をきっかけに、数年後ドロンは三船敏郎からのすすめで、日本企業であるレナウンの紳士服ブランド「ダーバン」のCM出演を果たしたというエピソードがあります。このCMは世間の評判を呼び、人気を博しました。
1972年、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の特別賞を受賞します。この賞はイタリア映画アカデミーが毎年主催する、イタリア映画における最高の名誉とされる賞です。これまで数多くの名作に出演してきたドロンが俳優として高く評価されたといえますね。
30代では、30本以上の映画に出演し、歌手としてもフランスの女性歌手ダリダとデュエットした『あまい囁き』が大ヒットするなど大活躍した10年でした。またCM出演により日本での人気度もさらに上がった時期ではないでしょうか。
『レッド・サン』
— 紗里@さり (@jetmark321) August 18, 2024
(1971年
日本映画を代表する三船敏郎さん、ハリウッド映画を代表するチャールズ・ブロンソン、フランス映画のスター「アラン・ドロン」の世界3大スターが共演した西部劇。 pic.twitter.com/NFGVHkUwcN
日本でも二枚目俳優の代名詞となっていったね!
アランドロンさんファンに聞いた、アランドロンさんの30代で印象に残っている出来事
パリは燃えているかという作品が本当に面白かったです。レトロな雰囲気ではあるのですがアランさんの魅力が満載な名作です。(30代男性)
殺人事件に巻き込まれてしまったことが印象に残っています。容疑者不詳のまま事件が終わってしまったので、未だに分からないところが余計に印象に残ります。(30代女性)
ナタリーさんと離婚したことですね。すでに婚約までして破棄した経歴があるだけに、その印象はより強いものとなりました。前回の失敗を糧に結婚までこぎつけたのに、やはり女性とはなかなか上手くいかないのかと。(50代男性)
40代
アランドロンさんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1976年(41歳):映画「パリの灯は遠く」で主演を務める
- 1977年(42歳):映画「チェイサー」で主演を務める
- 1983年(48歳):来日し広島を訪れる
1976年、映画「パリの灯は遠く」で主演を務めます。同作では、フランスにおける米アカデミー賞にあたるセザール賞で最優秀男優賞にノミネートされます。この時期には母国フランスでもドロンの演技力が認められてきたのではないでしょうか。
1977年、映画「チェイサー」で主演を務めます。前年の作品「パリの灯は遠く」と同様に「チェイサー」でもセザール賞最優秀男優賞にノミネートされます。2年連続でノミネートされたものの、惜しくも受賞は逃しています。フランス映画界の厳しさがうかがえますね。
1983年、東洋工業の招待を受け広島市を訪問します。マツダ工場を見学した後、広島へ来たからには平和公園を訪れたいというドロン本人の希望で、広島平和記念公園を訪れ原爆死没者慰霊碑に献花しました。
原爆資料館を訪れた際には、原爆の悲惨さを目の当たりにし「人類というすばらしい才能の持ち主が、二度とこんな悲劇を繰り返すことのないよう心から祈っている」と語ったといいます。親日家だったドロンが日本に深く思いを寄せていた様子がよくわかるエピソードですね。
俳優として着実にその演技力を認められるようになっていった40代のアランドロンさん。その後、1985年には二度ノミネートしていたセザール賞最優秀男優賞を受賞しています。また、来日した際に広島を訪れるなど親日家の一面も見え、親近感がわいた方も多いのではないでしょうか。
俳優としても人としても魅力的な人だったんだね!
アランドロンさんファンに聞いた、アランドロンさんの40代で印象に残っている出来事
チェイサーという作品が大好きです。言葉では表現し難い独特な雰囲気を孕んだ作品でアランさんの違った一面を見れる名作です。(30代男性)
『パリの灯は遠く』 でセザール賞の最優秀男優賞を受賞したことが印象に残っています。40代になっても活躍する彼がカッコよく感じました。(30代女性)
日本企業であるレナウンのCMに出演してくれたことです。これでテレビで見かけることが多くなりましたし、親しみのわく外国人俳優さんだって感じるようになりました。(50代男性)
アランドロンの若い頃の髪型はオールバック
アランドロンさんの若い頃の髪型といえば、男性らしいオールバックを思い出す方も多いのではないでしょうか。
アラン・ドロンを知らぬ若人よ…… 老人と懐古趣味者が騒いでいて怪訝かもしれぬが今晩ばかりは許せ。君らだって五条悟死んだら騒いでたろう…… この俳優は「顔一つで世界の映画界の均衡を変えた偉大な男」なんだ…… ホンマ悲しい…… 顔がいいなあチクショオ pic.twitter.com/5Fl1wDueJp
— 〇〇怪獣 バスコドン (@vasco_1970) August 18, 2024
端正な顔立ちにさわやかなオールバックがとても似合っていますね!世紀の二枚目と言われたのも納得のイケメンぶりです。
アランドロンさんが20代だった1960年代はビートルズのようなマッシュルームカットが流行していた時代です。しかしその顔立ちを際立たせるため、独自の髪型を貫いたのではないでしょうか。
まさに世界的映画スターの風格だね!
まとめ
今回は、アランドロンさんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
2024年8月にこの世を去ったアランドロンさん。多くの人々を魅了したフランスの名優であり、その活躍は世界中のファンの心に生き続けると思います。