高橋慶彦の若い頃は?昔の髪型はパンチパーマだった!

元プロ野球選手で、解説者や評論家として活躍する高橋慶彦さん。

若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。

さっそく、高橋慶彦さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。

目次

高橋慶彦のデビューのきっかけや時期は?

デビューのきっかけや時期

高橋慶彦さんのプロ野球デビューのきっかけや時期は、1974年の高校3年生の時、夏の甲子園東東京代表として出場した際、佐世保工を完封した試合で走塁を披露し、木庭教さんの目に留まりました。この評価がきっかけで同年のプロ野球ドラフト会議で広島から3位指名を受け、契約金800万円・年俸120万円で入団しました。

当時、早稲田実業への進学を目指していたが受験失敗し、野球に専念する決意を強める機会となりました。

ねこ太郎

高校時代はエースとして甲子園初出場したんだって

高橋慶彦の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

高橋慶彦さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。

幼少期

高橋慶彦さんは、1957年3月13日に北海道芦別市の炭坑街で生まれました。

父親は宮城県出身のクロスカントリースキー選手で、現役時代は全日本スキー選手権大会で入賞歴があるのだそうです!高橋さんが4歳の時、父親が芝浦工業大学スキー部監督に就任するため、家族で東京都清瀬市に引っ越しました。そのためその後は東京で育ち、城西高等学校に進学するまでの幼少期を過ごしました。

父親のスポーツマンとしての経歴が後の運動能力の基盤となり、少年時代から野球に親しむ環境が整っていたようですね!

ねこ太郎

父親から野球の厳しい訓練をしていたそうだよ!

10代

高橋慶彦さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1974年(17歳):夏の甲子園出場し、スカウトされる
  • 1975年(18歳):広島東洋カープに入団
  • 1975年(18歳):スイッチヒッター転向

1974年、高校3年生だった高橋慶彦さんは夏の甲子園に出場した際、広島カープのスカウト木庭教さんの目に留まりました。

その後、同年に行われたドラフト会議で広島から3位指名を受け入団しました。広島東洋カープに入団後、当初は遊撃手として期待されましたが、1軍出場なしに終わります。当時コーチから『プロ野球は足だけで飯が食える』とアドバイスを受け、足の速さを生かす方向に変えていきました。

寮費や用具費を支払うと手元に残るお金がほとんどなく、野球以外の選択肢がなかった状況で、古葉監督の指導を信じて努力を続け、古葉監督からは『出会いが良かっただけ』と評価され、1977年には1軍出場機会が増加していきました。

「お前が出てくるか、俺がクビになるか、どっちかやぞと言われました。僕より上手な人はたくさんいた。ただ、出会いが悪いとか絶対にある。僕は絶対に出会いが良かっただけ」。覚悟を決めて、信じて使ってくれた古葉さんのおかげで、79年には33試合連続安打の日本記録を樹立するなど台頭した。高橋氏は「古葉さんが大洋に行った。あの時に僕の野球人生は終わったんです」と、しみじみ振り返っていた。

引用元:スポニチ

ねこ太郎

当時は他の選手と差があり、このままではクビになるとビクビクしていたそうだよ!

高橋慶彦さんファンに聞いた、高橋慶彦さんの10代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

城西高等学校で野球に熱中していたというエピソードが印象的ですね。彼がいることで開成高校にコールドしたという話がすごいです。(30代男性)

ネット上の人物

高校時代に岸田元総理が所属する野球チームと対戦した。岸田元総理に野球のイメージはなくてびっくりしたから。(20代女性)

ネット上の人物

高校の野球部では、エースで4番だったというエピソードが印象的です。高校時代の活躍がプロの道に繋がっていったと思うからです。(30代女性)

20代

高橋慶彦さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1978年(21歳):初めてベストナインに選出される
  • 1979年(22歳):日本プロ野球史上初の33試合連続安打を達成
  • 1980年(23歳):2年連続日本一に輝く

1979年、高橋慶彦さんは、シーズンに日本プロ野球史上初の33試合連続安打を達成しました。この記録は未だ破られておらず、『走攻守の総合力』を証明し、当時のメディアから『彗星の如き存在』と称賛されました。

同年には、近鉄との日本シリーズ全7試合で打率.444を記録。チームの4勝3敗での日本一に貢献し、シリーズMVPに選出されました!

33試合連続安打といういまだに破られていない日本記録に対する思い入れを明かした。

引用元:スポニチ

衣笠祥雄さんから『史上最高のスイッチヒッター』と評価され、20代後半から4年連続20本塁打を記録するパワーとスピードを持ち合わせ『モテ男』としての人気を得ていきました。また、女性ファンのアイドル的存在となり、レコード『君の声がきこえる』や『うわさのセクシークイーン』で5万枚の売上を記録するほどの人気ぶりとなっていきました。

ねこ太郎

交友範囲の広さからもファンに親近感を与えていたそうだよ

高橋慶彦さんファンに聞いた、高橋慶彦さんの20代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

広島カープで活躍したというのが印象深いです。献身的なプレーが彼の持ち味だったのですごく心掴まれましたね。(30代男性)

ネット上の人物

広島カープで一番打者に抜擢される。周囲の人の反対を押し切って高橋さんを登用した監督の采配も凄いなと思ったから。(20代女性)

ネット上の人物

背番号を2に変えたことが印象的でした。ここから彼の活躍が際立ってくるので、運命の数字だとも思えたからです。(30代女性)

30代

高橋慶彦さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1987年(30歳):『カープ激励の夕べ』をボイコット、2週間の出場停止を言い渡される
  • 1990年(33歳):遠山奬志さんとのトレードにより阪神タイガースへ移籍
  • 1992年(35歳):現役引退

1989年、高橋慶彦さんは、ロッテ移籍後に金田正一監督との対立。遠征中の朝の散歩指示への反抗や、コーチからの『ゴマすれ』との発言が関係を悪化させてしまい、1年で阪神へ再トレードされました。トレード後も出場機会が減少し、1992年は遊撃手として19試合しか出場できず、若手との競争で『年齢的には辞め時』と判断し現役を引退しました。

若いときは守備のミスはバットや走塁で取り返せばいいと考えていたが、阪神では「打つ方も悪くなって迷惑かけている」と自ら引退を決意した。

引用元:スポニチ

1826安打で引退した理由として『生意気な時期が過ぎた』と語り、広島時代の古葉竹識監督の指導がなければ別の球団で育たなかったと振り返りつつ、トレード後の環境で成績維持が困難だったようです。

 高橋氏は「人間的な問題だね」と苦笑いした。「生意気な時期って野球選手には必要だけど、それが過ぎた」

引用元:スポニチ

引退後は数々のテレビ番組に出演し、野球解説や評論家として活動していきました。

ねこ太郎

コーチ就任のオファーが来てもテレビの仕事がしたくて断ったんだって!

高橋慶彦さんファンに聞いた、高橋慶彦さんの30代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

カープで打率が低下していった姿にとてつもない哀愁がありましたね。やっぱりスポーツ選手は波がありますね。(30代男性)

ネット上の人物

新人に活躍の場を奪われ、引退を決意。年齢的な面や体力的な面からアスリート生命には限界があることを改めて痛感したから。(20代女性)

ネット上の人物

現役を引退されたことが印象的でした。カープやロッテ、タイガースなどいろんなチームを渡り歩いてきた人だからこそ、とても感慨深かったです。(30代女性)

40代

高橋慶彦さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1997年(40歳):福岡ダイエーホークスの二軍守備・走塁兼打撃コーチを務める
  • 2000年(43歳):スポーツニッポン福岡版野球評論家
  • 2005年(48歳):ロッテの一軍走塁コーチに正式就任

40代になった高橋慶彦さんは、指導者としての道を歩んでいきました。1995年から1997年まで一軍打撃・走塁コーチを務め、村松有人さんや浜名千広さんら若手選手を指導。特に走塁面で『赤ヘル機動力野球』のノウハウを伝え、チームの基盤形成に貢献していきました。

2004年からは、ロッテマリーンズでコーチを任され選手たちを支えていきました。

「天才だから理解できるわけではなく、打てるようになればその感覚がわかってくる。要はコツだからね、全部。なぜ練習するのか、努力するのか。コツをつかむためにやっているわけです。そのコツをつかむのが下手なヤツは、やっぱり伸びていかない。コツをすぐに習得できる選手は伸びていきます」

引用元:東洋経済

テレビでも野球解説者として活動し、テレビ・ラジオ番組への出演が増えていきました。1998年には、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリバボー』内の企画で、ガーナでの野球普及活動が行われ、高橋さんは特別コーチとしてガーナを訪れました。現地で野球の基礎を指導し、地域の子供たちに野球の楽しさを伝える役割を果たしました。

現在は野球解説者・評論家として活動しながら、YouTubeチャンネル『よしひこチャンネル』で指導動画を公開しているようです。

ねこ太郎

福島県の企業広報部長として被災地復興支援の一環で野球教室を開催したよ

高橋慶彦さんファンに聞いた、高橋慶彦さんの40代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

ロッテのコーチに就任したというのが驚きでした。てっきり監督になると思っていたのでコーチとはびっくりしましたが結構似合っていました。(30代男性)

ネット上の人物

野球解説者、野球評論家として様々な番組に出演。ただ野球を見るよりも解説者の方がいてくれた方がより楽しめるから。(20代女性)

ネット上の人物

ロッテのコーチになったことが印象的でした。ロッテの名選手、西岡剛を育てたことも有名だと思ったからです。(30代女性)

高橋慶彦の若い頃の髪型はパンチパーマ

高橋慶彦さんの若い頃の髪型といえば、パンチパーマを思い出す方も多いのではないでしょうか。

高橋慶彦さんの若い頃の髪型は、当時のプロ野球選手に特徴的な『パンチパーマ』スタイルが主流だったようです。特に広島カープ時代の髪型は、チームメイトの山本浩二さんや衣笠祥雄さんらと共に、伝統的なパンチパーマを採用していました。この髪型は整った印象を与え、当時のファッションとして定着していたそうです。

理髪店主によると、高橋さんは若手時代からパンチパーマを好み、チームメイトと共に同じ理髪店で髪を切らせる習慣があったといいます。ファンからも『カープ選手らしい』と言われていたそうです!

初めて訪れたのは、巨人から移籍した深沢修一選手。「希望も聞かず、勝手に」パンチパーマをかけた。手入れが簡単でかっこいい髪形だと自信を持ってすすめられると確信していたからだ。カープ伝統のパンチパーマの始まりだった。気に入った深沢選手からの紹介もあり、選手や球団関係者が訪れるように。顧客には、山本浩二、衣笠祥雄、古葉竹識(たけし)、高橋慶彦、前田智徳、金本知憲、新井貴浩ら、カープを支えてきた選手、監督が並ぶ。

引用元:産経新聞

ねこ太郎

イケメンの高橋慶彦さんにとてもお似合いですね!

まとめ

まとめ

今回は、高橋慶彦さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

ねこ太郎

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!

これからの活動も頑張ってほしいと思います。

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