歌手・タレントとして活躍する西城秀樹さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、西城秀樹さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
西城秀樹のデビューのきっかけや時期は?

広島で生まれ育ち、音楽好きの父親の影響で幼少期から洋楽やバンド活動に親しんでいた西城さんは、高校時代に兄とバンドを組み、ジャズ喫茶などで演奏していました。そのジャズ喫茶での演奏中、東京から来ていたマネージャー(上条英男さん)にスカウトされたことが、芸能界入りのきっかけです。
上条さんがコンサートの仕事で広島を訪れた際、偶然入った喫茶店で、バンドのメンバーとして秀樹さんが出演していて『東京に来て、芸能界でやってみるか?』と声を掛けたそうです。しかし、芸能界入りには父親の猛反対がありましたが、母親や姉の支えもあり、家出同然で上京することを決意しました。
上京後は芸能事務所「芸映」に所属し、マネージャー宅に居候しながら歌・芝居・踊りのレッスンを重ね、デビューのチャンスを待ちます。そして1972年3月25日、シングル「恋する季節」で「ワイルドな17歳」のキャッチフレーズとともに歌手デビューを果たしました。
まさか、と思ったけど入ってますね。
— 森永タミー (@tammy_morinaga) April 1, 2025
西城秀樹さんの「恋する季節」の中に2ヶ所入ってます。
「おまえのぉすべってえぇ〜」https://t.co/98uhXwHJvh https://t.co/tP1Q0ltg1r pic.twitter.com/hSNkGPiIqG

スカウトが始まりだったんですね!
西城秀樹の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

西城秀樹さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
西城秀樹さん(本名:木本龍雄)は、1955年4月13日に広島市で生まれ育ちました。
ジャズギターが趣味だった父親の影響で、幼いころから家には洋楽が流れている環境で、日本の演歌や歌謡曲ではなく、欧米のジャズやロックが音楽の原点となっており、ビートルズやザ・ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリクスなどの影響を強く受けていました。
3歳年上の兄は秀樹さんにとって特別な存在であり、音楽の師でもありました。小学校3年生のころにエレキギターを始め、ドラムも学ぶ。小学4年生のときには、兄とともに「ベガーズ」というバンドを結成し、小学生ドラマーとして知られるようになります。さらに小学校5年生のころには兄とバンドでステージに立ち、地元のイベントや文化祭で演奏していました。
「将来はイギリスに住んでミュージシャンになりたい」と語るほど、音楽に夢中な少年時代を過ごしたそうです。
西城秀樹さんの幼少期は、音楽好きの父と兄の影響を強く受けています。さらに小学生でバンドを結成し、地元のイベントで演奏するなど、早くから音楽の道を歩み始めていたことが、後のスターへの礎となっているのではないでしょうか。

常に音楽に囲まれていたんですね。
10代
西城秀樹さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1968年(12歳):広島市立二葉中学校へ入学
- 1970年(15歳):私立山陽高等学校に入学
- 1972年(17歳):「恋する季節」で歌手デビュー
中学時代は、兄とともにバンド活動を続け、地元広島でライブハウスやイベントに出演し、音楽の腕を磨いていました。
1970年、私立山陽高等学校に入学。バンド「ジプシー」で活動し、ビアガーデンでのアルバイトや、岩国の米軍基地のライブハウスで演奏するなど、音楽活動の幅を広げていました。広島の有名ライブハウス「パンチ」にレギュラー出演するようになり、音楽シーンで頭角を現します。しかし、音楽の道を本格的に志し、家族の反対を押し切って高校をわずか半年で中退。上京を決意します。東京で芸能事務所「芸映」に所属し、歌やダンスのレッスンに励む日々が始まります
1972年、「恋する季節」で歌手デビュー。デビュー直後にファーストコンサート『ワイルドな17才』を開催しました。翌年には、デビュー1周年記念コンサート『ヒデキ・オン・ステージ』を開催。シングル「情熱の嵐」でオリコン週間チャート初のベストテン入り、「ちぎれた愛」「愛の十字架」で連続オリコン1位を獲得。さらにハウス「バーモントカレー」のテレビCMに出演し、知名度が全国区に!
5月16日
— 空色ノキモチ (@solachan1104) May 16, 2022
西城秀樹さんの命日🙏#愛と誠
ヒデキと早乙女愛さん
これぞ誠と愛
作品世界観を表現した大好きなグラビアです☺️
映画はヒデキ10代最後の記念碑的な作品となりました#西城秀樹 pic.twitter.com/YFaNL4qjbc
西城秀樹さんの10代は、瞬く間に国民的スターへと駆け上がった激動の青春時代ですね。

上京してからが凄まじいスピード感!
西城秀樹さんファンに聞いた、西城秀樹さんの10代で印象に残っている出来事


父親から芸能界入りを猛反対された為、家出同然で広島から東京まで出向いたことです。当時は10代半ばという若さでしたし、ものすごい行動力だと驚きました。(50代男性)

恋する季節で歌手デビューしたということがすごいです。やっぱりこの頃から才能は嘘をつかないのでしょうね。(30代男性)

「また逢う日まで」を聞いてドラマーから歌手に転向。私にとっても大好きな歌謡曲の一つで、どちらも情熱的なアーティストで重なる部分を感じたから。(20代女性)
20代
西城秀樹さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1975年(20歳):俳優としても活動を本格化
- 1979年(24歳):「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が200万枚を超える大ヒット
- 1983年(28歳):事務所を「アースコーポレーション」に移籍
1975年、ドラマ『あこがれ共同隊』に出演し、俳優としても活動を本格化。映画『おれの行く道』で主演を務めます。歌手としては、『全国横断コンサートツアー』を開催し、全国的な人気を確立しました。
「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が200万枚を超える大ヒット。『ザ・ベストテン』で史上唯一の満点を獲得し、9週連続1位を記録。「ホップ・ステップ・ジャンプ」「勇気があれば」などもヒットし、年間42回ランクインしました。
💫Picard Music Collection 1979年12月31日放送第30回NHK紅白歌合戦より⭐️西城秀樹『🎶ヤングマン』です。秀樹の28枚目のシングルで1979年2月21日にリリースされました。パフォーマンスも特徴的で、曲中で「Y」「M」「C」「A」を全身で表現することが流行りましたね。 😄
— picard (@pikeradxc) January 15, 2025
【以下詳細データです】… pic.twitter.com/10jGFfHR3x
引き続き音楽活動・コンサート・テレビ出演など多方面で活躍。1983年には事務所を「アースコーポレーション」に移籍し、活動の幅をさらに広げます。
西城秀樹さんの20代は、歌手としての大ヒットとともに、ドラマ・映画・ミュージカル・声優・司会など多彩な分野で活躍し、日本のエンターテインメント界をリードした時期だったんではないでしょうか。

ヤングマンが流れると思わず踊りたくなる!
西城秀樹さんファンに聞いた、西城秀樹さんの20代で印象に残っている出来事


「YOUNG MAN」をリリースしたことです。大ヒットしたのはもちろんですけど、今でも西城秀樹といえばYOUNG MANというイメージがのこっているほどです。それdけに印象的な出来事でした。(50代男性)

傷だらけのローラという曲がとても好きでした。よくテレビで聞いていてすごく胸が熱くなったことを覚えていますね。(30代男性)

韓国の公式の場で初めて歌唱した日本人となる。現地のオーディション番組でも西城さんの歌が歌われていて、韓国でも知名度の高いアーティストなんだなと思ったから。(20代女性)
30代
西城秀樹さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1986年(30歳):映画『傷だらけの勲章』に主演
- 1988年(33歳):年齢を冠したアルバム『33才』をリリース
- 1990年(35歳):アルバム『GENTLE・A MAN』をリリース
1986年、30歳で映画『傷だらけの勲章』に主演。刑事役としてアクションにも挑戦し、約10年ぶりの映画出演作として話題となりました。日本映画初の長期エジプトロケを敢行し、俳優として脂が乗った時期の代表作です。
「傷だらけの勲章」
— ぢろ痴 (@jirochi_neko) April 20, 2024
西城秀樹芸能活動15周年を記念して製作された。エジプトで謎の死を遂げた社長の遺言状を巡り、凄腕の刑事がエジプトへ向かうアクション。ずば抜けた身体能力を活かした派手なアクションが売りの秀樹が本作でも存分にその肉体と魅力を発揮する。邦画初のエジプトロケ作品になる。 pic.twitter.com/RQrA5BlDR6
1988年には年齢を冠したアルバム『33才』をリリース。ブラック・コンテンポラリー色の強い楽曲や大人の雰囲気を前面に出した作品で、新たな音楽性に挑戦しています。テレビ番組や音楽番組への出演も続け、ライブやコンサート活動も精力的に行っていました。
アルバム『GENTLE・A MAN』(1990年)、30代後半の代表的なオリジナルアルバムで、大人の男性像を意識した内容となっています。収録曲には「センチメンタル・モーテル」「Onesided night」「彼女は不機嫌」などがあり、シングルアーティストからアルバムアーティストへの転換を象徴する作品です。
西城秀樹さんの30代は、アイドル時代の熱さやエネルギーをそのままに、大人のアーティストとして新たな魅力を発揮した時期だと感じます。当時、アイドル出身の歌手が30代を迎えること自体が珍しく、時代の先頭を走りながらも、自分らしい音楽と誠実な生き方を貫いた点が素晴らしく思います。

歌声に力強さを感じます。
西城秀樹さんファンに聞いた、西城秀樹さんの30代で印象に残っている出来事


第23回日本レコード大賞金賞を受賞したことです。すでに西城秀樹さんの歌唱力の高さは自他ともに認めるところではありましたけど、公に認められたわけですし印象に残りました。(50代男性)

ヤングマンという曲がとても魅力的ですね。この曲の元気溌剌とした感じがたまらなく魅力的で最高でしたね。(30代男性)

ちびまる子ちゃんのエンディングテーマを歌う。主人公のまるちゃんが秀樹ファンという設定なのでアニメ内にも良く登場していて、ちびまる子ちゃんの世界に欠かせない存在だなと思うから。(20代女性)
40代
西城秀樹さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1995年(40歳):精力的に音楽活動やコンサートを継続
- 2003年(48歳):コンサートツアー中に脳梗塞を発症
- 2004年(49歳):再びステージに立ち、歌手としての活動を再開
40代前半も精力的に音楽活動やコンサートを継続。往年のヒット曲を中心にライブパフォーマンスを披露し、ファン層の広がりとともに“昭和のスター”としての存在感を保ち続けます。大人の魅力を前面に出したテレビ出演やイベントも増え、同世代や下の世代からも“ブーメランファン”と呼ばれる新たな支持層が生まれました。
西城秀樹 ブーメランストリート✨・♪#大人の歌謡クラブ
— M,R 24 April (@2coOc0QPmk20347) January 10, 2025
西城秀樹さん貴方は偉大な方でした🫡 pic.twitter.com/E3scrcxOfI
2003年(48歳)、コンサートツアー中に脳梗塞を発症。右半身麻痺などの後遺症と闘いながらも、懸命にリハビリを続け、ステージ復帰を目指す姿が多くの人に勇気を与えます。闘病生活の中でも「挫けても前に進む」という強い意志を持ち、リハビリやトレーニングに励み続けました。
2004年には再びステージに立ち、歌手としての活動を再開。家族やファンの支えのもと、困難を乗り越える姿が大きな感動を呼びました。
西城秀樹さんの40代の活躍には、深い感銘を受けます。若い頃の華やかなアイドル像から、円熟味を増したエンターテイナーとしての存在感を保ち続け、世代を超えて多くのファンに愛されていたことが印象的です。

諦めず前に進む姿勢に感激です。
西城秀樹さんファンに聞いた、西城秀樹さんの40代で印象に残っている出来事


『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売したことです。デビュー25周年ということで西城秀樹さんのアーティストそのもののような作品だったので、印象的でした。(50代男性)

ちびまる子ちゃんでの姿がとても印象に残っています。まる子のお姉ちゃんの想い人でアニメの中でもすごく格好良かったので必見です。(30代男性)

紅白歌合戦でYOUNG MANを歌唱。GENERATIONSやE-girlsなど世代を超えて色んなアーティストたちに歌い継がれているから。(20代女性)
西城秀樹の若い頃の髪型はウルフカット

西城秀樹さんの若い頃の髪型といえば、ウルフカットな髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。
襟足が長く、顔回りにたっぷり入ったレイヤーがふわふわにスタイリングされて、ライオンみたいでとてもかっこいいです。
今更ながら西城秀樹さんの若い頃の写真等見てときめいてます✨✨🌹🌹✨✨ pic.twitter.com/Yaawxohkq8
— うさぎ苺 (@SKousatsuk81329) July 11, 2024
1970年代の日本では、男性アイドルやロック歌手の間で「長髪」や「ウルフカット」が大流行しました。沢田研二さんや志垣太郎さんなど、他の人気男性歌手も同様のヘアスタイルを取り入れており、若者の間で憧れの的となっていました。ウルフカットは動きのある派手なパフォーマンスやステージ映えしやすく、また若々しさやエネルギッシュなイメージを強調できる髪型を目指していたのかもしれません。

長くても男らしい!
まとめ

今回は、西城秀樹さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。