岡田斗司夫の若い頃は?髪型はストレートヘアだった!

プロデューサー・評論家・文筆家・実業家として活躍する岡田斗司夫さん。

若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。

さっそく、岡田斗司夫さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。

目次

岡田斗司夫のデビューのきっかけや時期は?

デビューのきっかけや時期

学生時代からSFやアニメ、映画に熱中し、関西学生SF研究会連盟での活動や日本SF大会での自主制作映像の発表など、同人・ファン活動を積極的に行っていました。

それから1984年、岡田斗司夫さんは仲間とともにアニメ制作会社「ガイナックス」を設立し、代表取締役に就任しました。

1987年には、ガイナックスの初の劇場用アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のプロデューサーとして正式にデビューを果たしました。

ねこ太郎

学生時代からの功績だったんですね。

岡田斗司夫の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

岡田斗司夫さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。

幼少期

1958年7月1日、大阪市住吉区で一男一女の第二子として生まれました。家計は裕福ではなく、長屋で暮らし、ご飯のおかずがきな粉だけの日もあったほど質素な生活を送っていたそうです。

父親は学校の先生で、UFOや超能力などのミステリー好き。母親は足が不自由ながらも刺繍の内職を始め、後に刺繍会社を設立し、さらに宗教法人を買収して教祖となったというユニークな経歴を持っています。

幼い頃から天才的な頭脳を持ち、幼稚園在籍中に漢字を読めるようになったため「幼稚園は必要ない」と自ら退園しています。

小学生時代には、知能検査でIQ148以上と判定され、「頭が良いなら宿題は無意味」と考え、以後学校の勉強をほとんどしなくなりました。ただし、勉強自体が嫌いだったわけではなく、科学者になることを夢見ていました。これは父親の影響で、UFOや未来技術への興味が強かったためです。

既成概念に捉われず自分の考えで行動できて、自分なりの価値観や世界観を育んでいた幼少期の岡田斗司夫さんは、非常に個性的で、知的好奇心と独立心が強い少年だったようですね。

ねこ太郎

スーパー幼稚園児過ぎます!

10代

岡田斗司夫さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1971年(13歳):大阪市立三稜中学校に入学
  • 1974年(16歳):大阪府立今宮高等学校に入学
  • 1976年(18歳):高校卒業後、浪人

中学時代は、SF作家志望で空想科学やオカルトに熱中。父親と空想上の乗り物について議論していました。友人と自主映画を制作し、学校行事で上映。ラジオ番組へ科学的考察の投稿も行いました。

高校時代は進学校に進み、アニメや漫画、特に『宇宙戦艦ヤマト』に夢中になります。蔵書は1万冊を超えたそうです。趣味に没頭し、30万円超の高級ビデオデッキ「Uマチック」を親に買ってもらうなど、映像やオタク活動に熱中しました。

大学受験に失敗し、予備校に通います。大阪電気通信大学に進学するも後に中退しました。しかし、オタク的な活動や創作への情熱は失いませんでした。

岡田斗司夫さんの10代は、学校の勉強よりも自身の興味や好奇心を追求し、映画制作やアニメ、SFに没頭したクリエイティブな時期でした。こうした経験が、後のアニメ制作や評論家としての活動に大きな影響を与えているのではないでしょうか。

ねこ太郎

好きなことに夢中になれるっていい!

岡田斗司夫さんファンに聞いた、岡田斗司夫さんの10代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

大阪電気通信大学へ入学したことです。この頃はまだパソコンなんて世に出回っていなかった時代ですけど、すでにコンピューターや通信関係に関心を持っていたことに驚きました。(50代男性)

ネット上の人物

宇宙戦艦ヤマトが大好きだったという話を聞いてかなり親近感が湧きましたね。やっぱりあの作品は名作だと思います。(30代男性)

ネット上の人物

3年間で持っている本は1万7千冊を超えた。芦田愛菜さんもですが本をよく読む人は本当に知識が豊富で、やっぱり読書って大事なんだなと思ったから。(20代女性)

20代

岡田斗司夫さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1979年(21歳):自主制作映像や特撮作品を制作
  • 1981年(23歳):「第20回日本SF大会(DAICON3)」を主催
  • 1984年(26歳):アニメ制作会社「ガイナックス」を設立

大学生活を送りつつ、同人誌制作やイベント企画などオタク活動を本格化。仲間と自主制作映像や特撮作品を制作しました。

1981年には、「第20回日本SF大会(DAICON3)」を主催。伝説的なオープニングアニメを自主制作し、観客に衝撃を与えました。翌年には結婚しますが、イベント運営やアニメ制作は続けます。複数のプロジェクトを同時進行し、寝る間も惜しんで活動しました。

1984年、アニメ制作会社「ガイナックス」設立。代表取締役に就任し、プロとしての活動を本格化。翌年には、初の劇場用アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の準備・制作に取り組みます。

岡田斗司夫さんの20代は、同人やアマチュアからプロへの転換期であり、情熱と行動力に満ちた時代でした。20代前半は「やりたいことが多すぎて時間が足りない」と感じるほど多忙で、寝る間も惜しんで取り組む姿勢が後の成果に繋がったのかもしれません。

ねこ太郎

20代で会社設立してたなんて・・・!!

岡田斗司夫さんファンに聞いた、岡田斗司夫さんの20代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

SFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を開店したことです。当時としてはSFグッズなんてニッチな部類に入るものだと思いますが、すでに目をつけていたことに驚きました。(50代男性)

ネット上の人物

大阪電気通信大学に入ったという話が意外ですね。正直大学ではなく専門学校に通っていたと勝手に思っていました。(30代男性)

ネット上の人物

日本SF大会に参加。幼少期からSFへの熱量がずっと衰えていなくて、好きなものに全力になれるって素敵なことだなと思ったから。(20代女性)

30代

岡田斗司夫さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1989年(31歳):アニメ業界での地位を確立
  • 1992年(34歳):ガイナックス社長を退任
  • 1994年(36歳):書籍「オタク学入門」を執筆

1989年から1991年には、ガイナックスで『ふしぎの海のナディア』などのヒット作をプロデュースするなど、アニメ業界での地位を確立します。

ガイナックス社長を退任し、評論・執筆活動を本格化。サブカルチャー評論家「オタキング」としてメディア露出が増加しました。

1994年からは、書籍『オタク学入門』などを執筆。テレビや雑誌での評論活動、講演活動の展開や東京大学非常勤講師も務めました。1997年には、サブカルチャー評論家・文筆家として活動しています。

アニメ制作現場から評論・教育・執筆活動へと活動領域を拡大し、岡田斗司夫さんの「オタキング」としての地位を確立した30代でした。名前を聞けば分かる作品ばかりなのでプロデュース力が高いことが伝わります。

ねこ太郎

30代で社長を退任し、すぐに新たなステージへ・・・行動力が凄い!

岡田斗司夫さんファンに聞いた、岡田斗司夫さんの30代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

岡田さんの手掛けたPC用ゲームソフト電脳学園シナリオI Ver2.0が有害図書指定されたことです。これがガイナックス退社にもつながることになりましたし、印象に残りました。(50代男性)

ネット上の人物

アニメ制作会社ガイナックスに入ったということが意外でした。アニメが好きだとは聞いていましたが制作に関わっていたとは本当にすごいですね。(30代男性)

ネット上の人物

東京大学の非常勤講師を務める。オタク文化論やマルチメディア概論など名前を聞くだけでとても面白そうな講義だなと思ったから。(20代女性)

40代

岡田斗司夫さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 2002年(44歳):ダイエットに挑戦し、一時は30kgの減量に成功
  • 2004年(46歳):メディア・教育活動の拡大
  • 2006年(48歳):「オタク文化」への新たな提言

40代前半にはダイエットに本格的に取り組み、一時は30kgの減量に成功。日々の食事を記録する「レコーディング・ダイエット」を提唱し、自身の体験をもとにしたエッセイや講演を展開します。2007年には『いつまでもデブと思うなよ』を出版し、社会現象となりました。

2004年、NHK BS2『BSアニメ夜話』の企画・司会を担当。アニメの深い知識と軽妙なトークで一般層にも知名度を高め、アニメ評論家としての地位を確立。翌年2005年から大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科客員教授に就任。心理学的な「4タイプ」理論など独自の視点で講義を行い、教育にも力を入れています。

2006年、新宿ロフトプラスワンでのトークショー「オタク・イズ・デッド」で「オタクという民族は解体し、『オタク文化』は死んだ」と宣言。「個人として好きなものを楽しむ時代」との論を展開し、メディアで大きな話題となります。後にこの内容を加筆し『オタクはすでに死んでいる』(2008年)として出版しました。

岡田斗司夫さんの40代の活躍は、非常に多彩で意義深いものだったと感じます。評論家・作家としての活動を本格化させ、アニメやサブカルチャーのみならず、社会現象やダイエットなど幅広い分野で発信力を発揮しました。様々なジャンルから存在を広めることができて素晴らしいです。

ねこ太郎

30㎏の減量に衝撃!!

岡田斗司夫さんファンに聞いた、岡田斗司夫さんの40代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

食玩「王立科学博物館」シリーズをタカラから発売したことです。シリーズ化する程の人気だったわけですし、目の付けどころが違い人だなと印象に残りました。(50代男性)

ネット上の人物

オタキングという会社を立ち上げたと聞いてやっぱり行動力がある方なんだと再確認しましたね。なかなか簡単にできるものではありませんよね。(30代男性)

ネット上の人物

「王立科学博物館」シリーズを企画。すごく緻密なフィギュアばかりで、ファンからするとオタク心をくすぐられるたまらない逸品なんだろうなと思ったから。(20代女性)

岡田斗司夫の若い頃の髪型はストレートヘア

岡田斗司夫さんの若い頃の髪型といえば、真ん中分けのストレートヘアな髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。

当時の写真を見ると、センター分けで全体的に重めでラフな印象の髪型をしており、特にセットにこだわらず自然体のように見えます。その時代のオタクのイメージが思い浮かぶような髪型かもしれません。

1970年代後半から1980年代前半の日本では、若者の間で「ナチュラル志向」や「無造作ヘア」が流行していました。特にサブカルチャーやオタク文化の黎明期においては、ファッションや髪型に過度なこだわりを持たず、知的・内面的な個性を重視する傾向が強かったため、岡田さんも自然体の髪型を選んでいたのかもしれません。

ねこ太郎

見た目より中身を重視!

まとめ

まとめ

今回は、岡田斗司夫さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

ねこ太郎

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!

これからの活動も頑張ってほしいと思います。

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