麿赤兒の若い頃は?昔の髪型は長めの黒髪だった!

俳優、舞踏家として活躍する麿赤兒さん。

若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。

さっそく、麿赤兒さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。

目次

麿赤兒のデビューのきっかけや時期は?

デビューのきっかけや時期

麿赤兒さんのデビューのきっかけは、1964年に舞踏家・土方巽さんに師事しながら、劇作家・唐十郎さんとともに劇団「状況劇場」を設立したことです。

やりたいことは新劇じゃない。演劇からはみ出したものを欲していたところに声をかけられてね。すっかり意気投合した

https://www.jprime.jp/articles/-/26258?page=4http://週刊女性PRIME

麿赤兒さんは21歳の頃、劇作家・唐十郎さんと出会い、意気投合しました。その後、唐さんが主宰する劇団「状況劇場」で本格的に俳優・舞踏家としての活動を始め、以後、俳優・舞踏家としての道を歩み始めました。

ねこ太郎

本名は大森宏さん!

麿赤兒の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

麿赤兒さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。

幼少期

麿赤兒さんは1943年、大日本帝国海軍の軍人・大森潤さんのもと、石川県金沢市で生まれました。当時は太平洋戦争中で、父親は麿赤兒さんが1歳の頃に戦死しました。父の戦死後、母親は精神を病み、小学5年生のときに奈良県桜井市・三輪山麓に住むおじ夫婦に預けられました。

また、幼少期には肺結核を患い、入院生活を送っていました。その入院中、同室の患者たちの影響で、文学や演劇に興味を持つようになったそうです。過酷な環境が内面を深め、表現者としての感性や原点につながっているのだと感じますね。

ねこ太郎

困難な経験をされたんだね!

10代

麿赤兒さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1956年(13歳):中学校に入学し、演劇部に所属
  • 1959年(16歳):奈良県立畝傍高等学校に進学
  • 1962年(19歳):早稲田大学第一文学部哲学科に入学

麿赤兒さんは、肺結核による入院中に演劇に興味を持ったことをきっかけに、1956年に中学校へ入学すると、演劇部に所属しました。

その後、奈良県立畝傍高等学校に進学し、引き続き演劇部で活動。高校時代には、木下順二やチェーホフの短編作品などを上演していました。

高校卒業後は演劇を志して上京し、早稲田大学第一文学部哲学科に入学します。しかし、演劇の授業がなかったため、間もなく中退しました。

中学・高校と一貫して演劇に打ち込み、表現を追い求め続けたその姿勢が、後の舞踏家・俳優としての礎となったことがよくわかりますね。

ねこ太郎

演劇との出会いが、人生の扉をひらいたのかも!

麿赤兒さんファンに聞いた、麿赤兒さんの10代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

麿赤兒さんの母が麿赤兒さんの父の戦死で精神を病み、小5の時に奈良県桜井市に住むおじ夫婦に預けられ、肺結核で入院していたこと。この時期に同室の患者からの影響で、文学や演劇に興味を持ったことが感慨深い。(40代女性)

ネット上の人物

劇団ぶどうの会に参加したというエピソードが印象深いですね。この頃から演技に興味があったのかと意外でした。(30代男性)

ネット上の人物

戦禍の中おじ夫婦の家に預けられる。現代人には想像できないほど壮絶な少年時代を送っていらっしゃったから。(20代女性)

20代

麿赤兒さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1964年(21歳):劇団「状況劇場」を設立し、俳優・舞踏家として活動を開始
  • 1971年(28歳):劇団「状況劇場」を離れる
  • 1972年(29歳):暗黒舞踏集団「大駱駝艦」を結成

1964年、麿赤兒さんが21歳のとき、舞踏家・土方巽さんに師事しながら、劇作家・唐十郎さんと共に劇団「状況劇場」を設立し、俳優・舞踏家として活動を始めました。

その後、唐十郎さんが提唱する「特権的肉体論」を体現する役者として活躍。28歳で劇団「状況劇場」を離れます

1972年、29歳のときには暗黒舞踏集団「大駱駝艦」を結成し、主宰を務めることとなります。独自の活動を本格化させ、舞踏を「BUTOH」として海外にも広めました。

若くして舞踏や演劇の世界に飛び込み、自らの表現を突き詰めていく姿勢が、後に舞踏を世界へ広めるきっかけとなったのかもしれませんね。

ねこ太郎

BUTOHのパイオニア!

麿赤兒さんファンに聞いた、麿赤兒さんの20代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
ネット上の人物

麿赤兒さんは独自で舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」を立ち上げて主宰したこと。海外公演も積極的に行ったといい、舞踏を「BUTOH」として広めている。(40代女性)

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状況劇団に参加して演技の勉強をしていったという話を聞いて感慨深く思いましたね。やっぱり劇団の特訓は厳しそうですね。(30代男性)

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劇団「ぶどうの会」に所属するが上部の政治的な議論が嫌になり脱退。演技の世界にも政治の話が絡んでくるところが当時の風潮を表しているから。(20代女性)

30代

麿赤兒さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1973年(30歳):「大駱駝艦」を率い、独自の舞踏様式「天賦典式」を確立
  • 1974年(31歳):舞踊評論家協会賞を受賞
  • 1982年(39歳):アメリカン・ダンス・フェスティバルで海外デビュー

30歳になると、29歳で旗揚げした「大駱駝艦」を率い、独自の舞踏様式「天賦典式」を確立していきます。

翌年には、舞踊評論家協会賞を受賞しました。

そして39歳のとき、アメリカン・ダンス・フェスティバルで海外デビューを果たし、その後は海外公演も増えていきました。

独自の舞踏スタイルを築き上げ、評価も実績も着実に積み重ねているのがすごいですね。国内だけでなく海外でも活躍の場を広げていく姿に、圧倒されます。

ねこ太郎

国内外に影響を与える姿がかっこいいね!

麿赤兒さんファンに聞いた、麿赤兒さんの30代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
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1972年に麿赤兒さんは29歳で独自の舞踏集団「大駱駝艦」を立ち上げてから、2年足らずで舞踊評論家協会賞を受賞していたこと。素晴らしい才能の持ち主で、早急にしかるべき評価をされたのだと感じた。(40代女性)

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舞踏を海外へと広める活動をしていたということを聞いて本当にすごいなと思いましたね。なかなか海外に浸透させるのは難しいはずなのにやってのける精神が素晴らしいです。(30代男性)

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舞踏集団「大駱駝艦」を立ち上げる。舞踊家としての一面もあるところが俳優さんでは珍しく、麿さんのアイデンティティとなっているから。(20代女性)

40代

麿赤兒さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1983年(40歳):「大駱駝艦」として海外公演が本格化
  • 1987年(44歳):舞踊評論家協会賞を受賞
  • 1991年(48歳):鈴木清順監督の「大正浪漫三部作」に出演

この頃から、「BUTOH(舞踏)」の国際的な認知が高まり始めます。1982年には、フランスとアメリカで大駱駝艦として初の海外公演を行い、それ以降、海外での公演が本格化しました。

1987年、44歳のときには舞踊評論家協会賞を再び受賞

その後は、鈴木清順監督の「大正浪漫三部作」に出演するなど、俳優としても映画・テレビドラマ・舞台で幅広く活躍しました。

舞踏で世界に認められながら、俳優としても表現の幅を広げていく姿が印象的です。舞台と映像、両方の世界で独自の存在感を放ち続けているのが素晴らしいですね。

ねこ太郎

この頃、息子・大森南朋さん俳優デビュー!

麿赤兒さんファンに聞いた、麿赤兒さんの40代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
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舞踏だけではなく、多くの映画作品にも出演していたこと。特に赤井英和さんをモチーフとした映画『どついたるねん』に出演して鴨井大介役だったことが新鮮でした。(40代女性)

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舞踊評論家協会賞を受賞したという経歴が本当に素晴らしいですね。なかなかこんな厳かな賞、簡単には貰えないので本当にすごいです。(30代男性)

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息子の大森南朋さんが俳優デビュー。麿さんは天才てれびくんという番組でよく見ていたし、大森さんもドラマでよく見る俳優さんなので二人の関係性が結びついたときにかなり衝撃が走ったから。(20代女性)

麿赤兒の若い頃の髪型は長めの黒髪

麿赤兒さんの若い頃の髪型といえば、長めの黒髪髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。

現在の麿赤兒さんはスキンヘッドですが、そのワイルドな印象は昔も今も変わりませんね。

1960年代には、反体制やおしゃれの一環としてヒゲを伸ばす動きが現れ、「男らしさ」や「個性」の表現として若者の間で支持されるようになりました。

ねこ太郎

ヒゲが印象的だね!

まとめ

まとめ

今回は、麿赤兒さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

ねこ太郎

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!

これからの活動も頑張ってほしいと思います。

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