ミュージシャンとして活躍する小室哲哉さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、小室哲哉さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
小室哲哉のデビューのきっかけや時期は?
小室哲哉さんは、14歳の頃からプロのミュージシャンを目指し始めます。
──小室さんが音楽を仕事にしようと思ったのはいつ頃のことでしょうか。
小室哲哉(以下・小室) 中学2年生なので、14歳の頃ですね。それ以降は「どうやったらプロのミュージシャンになれるのだろう」ということばかり考えていました。
1977年、高校卒業間近だった彼は、”イラプション”というバンドを組みます。
バンドコンテストに参加することでプロデビューを目指していましたが、叶いませんでした。
この頃、小室には裏方の仕事も多く回ってきたが、自らの音楽的趣向とは関係のないものが多く、鬱屈としたものを抱えていたらしい。プロの入り口は近くても、その奥はとても長い。そんなことを当時の小室は感じていたという。
引用元:音楽ナタリー
その後、コンテスト「East West '77」に出場した結果、事務所にスカウトされ、ギズモというバンドを結成します。
1977年10月30日、新宿厚生年金会館で前座として演奏を披露し、プロとして初めてのステージを経験しました。
デビューのきっかけは、音楽事務所のスカウトだったんだね!
小室哲哉の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
小室哲哉さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
小室哲哉さんは、3歳頃から、バイオリンを習い始めたそうです。
「自分の目線から、指で弦を持つと100メートルぐらい遠いところに見える。100メートルは大げさですけど、10メートルぐらい。“こんな遠いの”って」と子供ならではの苦労をちゃめっ気たっぷりに明かした。
引用元:Sponichi Anex
1970年に大阪で開催された日本万国博覧会で、作曲家冨田勲さんのシンセサイザーの演奏を聴き、興味を持ち始めます。
小室は11歳の時に学校を休んで行った大阪万博(1970年)で冨田の音に触れ、“宇宙が見えた”ことががきっかけで音楽家を目指した旨を伝えると、そこからトークは一気に冨田の歴史を遡っていくことに――。
引用元:CD Journal
シンセサイザーに興味を持った彼は、当時としては一歩先を行く考え方だったのではないでしょうか。
小室哲哉さんの音楽の原点が垣間見えるね!
10代
小室哲哉さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1971年(12歳):初めて鍵盤楽器に触れる
- 1973年(15歳):中学校の放送部の部長として活動し、学園祭のライブを経験する
- 1974年(16歳):早稲田実業高校へ進学し、レコード店やロック喫茶に入り浸るようになる
大阪万博での冨田勲さんの演奏を聴いたことで、シンセサイザーに興味を抱いていた小室哲哉さん。
ふとしたきっかけで、そんな彼の自宅にエレクトーンがやってくることになります。
鍵盤楽器に初めて触れたのは12歳。グループ・サウンズもどきの音楽をやっている親戚がいて、その人を経由して我が家にエレクトーンがやってきたんです。
自宅にオーディオ機器が揃っていたこともあり、レコードを聴き、音楽の勉強を続けていました。
彼は、この頃から音楽の再生環境まで意識するようになったようです。
あの時代はまだステレオという概念が正確に浸透していなくて、友人の家に遊びに行くと、スピーカーの1台はリビングに、もう1台は玄関の靴箱の上に置いてある(笑)。だから同級生に「2台のスピーカーの真ん中で聴かないと、音像が立体的に聴こえないよ」と教えた記憶があります。
高校へ進学した後も、音楽を中心とした生活を送っていた小室哲哉さん。
プロを目指していた彼は、音楽を制作している裏側をイメージして、レコードを聴くようになったそうです。
たくさんの音楽に触れるなかで、レコード制作のカギを握るのがプロデューサーだとわかってきて、高校以降はプロデューサー括りでレコードを聴くようになりました。TM NETWORKのデビュー・アルバム『RAINBOW RAINBOW』のジャケット裏に「PRODUCED BY TETSUYA KOMURO」とクレジットされているのは、僕が強く希望したからです。
音楽に熱意を持ち、独学で知識を深めながら、着実にプロへの歩みを進めていったんですね!
音楽に夢中な10代だったんだね!
小室哲哉さんファンに聞いた、小室哲哉さんの10代で印象に残っている出来事
早稲田大学社会科学部へ進学したことです。音楽家としての才能がすごかっただけに、てっきり音大等音楽関連へと進んでいたと思っていたのでこれは意外でした。(50代男性)
バイオリンの習い事をしていたということを聞いて本当に昔から音楽が好きだったんだなと思いましたね。やはり天才は伊達ではありません。(30代男性)
母がエレクトーンを購入したことをきっかけに鍵盤楽器を弾くようになる。小室哲哉さんといえば鍵盤楽器を演奏している姿が真っ先に思い浮かぶくらい、小室さんと鍵盤楽器は密接な関係にあると思うから。(20代女性)
20代
小室哲哉さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1983年(25歳):ボーカル宇都宮隆、ギター木根尚登らとTM NETWORKを結成する
- 1985年(27歳):初の全国ツアー「Dragon The Festival Tour」を開催する
- 1987年(29歳):アニメ『シティハンター』のエンディング曲として『Get Wild』がヒットする
小室哲哉さんは、以前参加していたバンド・SPEEDWAYを率いていたギター・木根尚登さんのアドバイスを受けながら、活動を続けていました。
木根さんと共に男性歌手のプロデュースをしたことがきっかけとなり、ボーカル・宇都宮隆さんを招き入れることになります。
小室は82年、EPIC / SONYプロデューサーの小坂洋二と知り合ったが、小室のシンセのインスト曲のデモテープを聴いた小坂は、小室の才能には興味を持ちながらも、ボーカルがいないとデビューは難しいと告げる。そこで小室は固定のボーカリストを加えるべく、SPEEDWAYボーカルの宇都宮に声をかけた。
引用元:音楽ナタリー
1983年8月22日、「フレッシュサウンズコンテスト」で優勝したTM NETWORKは、EPIC / SONYと正式に契約をします。
(わああ!TMの曲ってかっこいいーー!)ってFANKS人生が始まった37年前。
— さとみん (@satomin1974) April 21, 2024
自宅にあった過去の雑誌を探しまくって、「明星」かな?TMちゃんが載ってたワタクシ的切り抜き第一号がこれ。
デビューから1年半って書いてあるね。
本日40周年。
皆様にも見ていただけたら。#TMNETWORK #TMNETWORK40周年 pic.twitter.com/WjfkJT3biG
先進性を追い求めてコンピューターを導入しましたが、ライブでの再現が困難になってしまったそうです。
そのため、TM NETWORKはミュージックビデオを中心とした活動方針を打ち出すようになります。
当初はアルバム全曲のMVを制作する計画まであったという。これは「MTV」や「ベストヒットUSA」など、洋楽のMVを流すメディアの隆盛を意識したものでもあった。ただしこの戦略はあまり成果を挙げられなかったようだ。
引用元:音楽ナタリー
その後、コンピューターの性能が向上したことをきっかけに、ライブにも力を入れるようになっていきました。
プログラムされた中でアドリブをする難しさを克服するために、サンプリングボイスの連打プレイを取り入れるようになります。
だが小室はこの制約を逆に利用した。すなわちスタジオ音源の再現を追求するのではなく、ライブで再現可能な形に曲をアレンジし直したのだ。その中には、スタジオ音源にないフレーズを加えたり曲の構成を変えたりするなど、非常に手が込んだものも多い。
引用元:音楽ナタリー
この特徴的な音楽性が注目されるようになり、TM NETWORKはついにブレイクを果たします。
シティハンターが映画化されるらしいですね
— DJあっちゃん🎧 (@moe_moe_dao) March 19, 2018
わいもカラオケで歌いまくる、みんな大好きなアニソン『getwild』#getwild #シティハンター pic.twitter.com/c5rSNRn34z
今でこそ有名なTM NETWORKですが、デビューしてから多くの課題に直面していたんですね。
実験的な音楽を売り出すために、努力していた20代だったんだね!
小室哲哉さんファンに聞いた、小室哲哉さんの20代で印象に残っている出来事
TM NETWORKを結成したことです。小室さんをメジャーへと押し上げた音楽ユニットですし、今でもTMNETWORKの小室さんと思ってしまうほど。ですので印象的な出来事でした。(50代男性)
TMネットワークとしての活動が本当に印象に残っています。シティーハンターの曲が本当に格好良かったですね。(30代男性)
早稲田大学社会学部に在学。音楽の天才というイメージが強すぎるからか、実は勉強も出来ちゃうことはあまり知られていない気がするから。(20代女性)
30代
小室哲哉さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1988年(30歳):TM NETWORKの海外展開を目指し、イギリスへ渡る
- 1989年(31歳):歌手としてソロデビューを果たす
- 1995年(37歳):シングル『Feel Like dance』でglobeとしてデビューする
イギリスへ渡った小室哲哉さんは、TM NETWORKの海外展開という本来の目的を果たすことはできませんでした。
しかし、後に大きく影響を受ける音楽プロデューサー集団PWLのマット・エイトキンさんと接点を持ちます。
マットとの対話の多くはミュージシャンとして目指す理想の音楽などではなく、売るための方法論だった。むしろ小室はそこに共感して自分のやり方に近いものを感じたと言っており、小室はプロデューサー期以後も、しばしばPWLの人脈にミックスを依頼している。
引用元:音楽ナタリー
その後、TM NETWORKの活動休止期間中に、歌手としてソロデビューをした小室哲哉さん。
アルバム『Digitalian is eating breakfast』をリリースし、全国ツアーを行いました。
TMとは違った「大人」の雰囲気をHURRAY FOR WORKING LOVERS等から感じた中3の冬
— とびえもんa.k.a.とんかつマン (@FCTM54GP) December 9, 2019
神アルバム中の神アルバム
哲ちゃんソロデビュー30周年(サントラは出していたが)
小室哲哉/Digitalian is eating breakfast#小室哲哉ソロ30周年#小室哲哉#DEBF30TH pic.twitter.com/JlapHcMrJi
1991年には、全国のディスコでDJイベント「TK TRACKS NIGHT」を開催します。
このイベントをきっかけに、後にユニットを組むことになるKEIKOさんが女性ボーカリストとしての才能を見出されます。
身内が言うのも変ですけど、やっぱり逸材だったんじゃないですかね。そう簡単にどこででも見つけられる人ではなかった……ということに僕も後から気付いていくんですけど。でもオーディションの時点で「音楽を生業にしてやっていく人だな」とは感じていました。エンターテインメントを仕事にしていく人だなって。
引用元:billboard JAPAN
その後、日本とフランスのハーフのラッパー・MARC PANTHERさんとともに、globeとしてデビューしました。
日本におけるフェスの走り、ともいわれるイベント「TK DANCE CAMP」にて,お披露目が行われました。
ただ、【TK DANCE CAMP】の日は、僕はイベントのトータルプロデューサーでもあって、globeのメンバーでありながらも、すべての出演者に対して同じ力量で接さなければいけなかったので、彼女は僕に頼ることが出来なかった。だから自分で何とかしなきゃいけない。
引用元:billboard JAPAN
まだ素人だったはずのKEIKOさんがいかに肝が据わっていたのか、が伝わってきます。
この間にもヒット曲を出し続け、”TKブーム”を巻き起こした彼は、まさに天才と呼ぶべき存在ですね。
30代の頃から自身を”TK”と名乗るようになったんだね!
小室哲哉さんファンに聞いた、小室哲哉さんの30代で印象に残っている出来事
シンガーソングライターとしてソロデビューしたことです。これまではTM NETWORKの一人だったのに、とうとうソロでも活躍していくのかと驚きました。(50代男性)
プロデュースの才能にかなり特化していたのが印象的ですね。本当に名曲ばかり出てきてすごく感動したことを覚えていますね。(30代男性)
TM NETWORKの「Get Wild」が人気を博す。当時生まれていない世代でも知っているような、時代を超えて歌われ続けている名曲だから。(20代女性)
40代
小室哲哉さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1998年(40歳):ソニー・ミュージックエンタテインメントを拠点とし、プロデュースを始める
- 2001年(43歳):自身の所属するユニットの活動に専念し、トランスミュージックに着手する
- 2008年(50歳):詐欺罪容疑で逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受ける
1997年にはビジネスパートナーとして連れ添ったavexとの関係が決裂しましたが、SMEにて態勢を立て直した小室哲哉さん。
オーディション番組『ASAYAN』への出演をきっかけに歌手デビューを果たした鈴木亜美さんなど、さまざまなアーティストのプロデュースに関わるようになります。
やっぱり小室さんの曲は凄いですよね。当時も、大人になった今でも歌えて、ライブでも通用する。歌詞の内容も、大人になっても共鳴できる。本当にすごい宝物をもらったなと思っています。
引用元:文藝春秋digital
2001年には、DJ Dragon、VJ原田大三郎の3人で構成されたトランスユニット・GABALLとして活動し始めます。
トランス音楽とは、1990年代初めにヨーロッパで誕生したエレクトロニック・ダンス・ミュージックのジャンルのことを指します。
Tranceミュージックのゴールは、リスナーを “トランス状態” にすることです。したがって、さまざまなセクション間で一定の流れを構築することを目指し、構成全体で同じループの異なる組み合わせを使用することで、リスナーが曲に親しみを感じることができるようにします。
2008年、小室哲哉さんは著作権の二重譲渡の詐欺罪の容疑で逮捕されます。
事業に失敗するなど、多額の借金に追われたことが原因だったそうです。
「被害者の方、そして世の中の皆さんに大変ご迷惑をかけ、また失望感を与えた。この事件で、音楽が自分の人生にとってどれだけ大切なものか、再認識できました」
引用元:J-CAST ニュース
新たな音楽ジャンルへの挑戦や海外を視野に入れた活動などを通して、日本の音楽シーンの先頭に立ち続けていたんですね。
40代の頃は、悩みが多かったかもしれないね…
小室哲哉さんファンに聞いた、小室哲哉さんの40代で印象に残っている出来事
5億円詐欺事件を起こしたことです。これは衝撃的な出来事でした。ここ最近うまくいってなかったのは知っていましたけど、詐欺事件をしてしまう程困っていたのか?と驚きました。(50代男性)
作曲家として今なお素晴らしい功績をあげているのが本当に素晴らしいですね。ネタ切れというものを感じさせない雰囲気が本当にすごいです。(30代男性)
篠原涼子さんや安室奈美恵さんなどへの提供曲が軒並みヒットする。小室さんが作ってきた曲は本当に有名なものばかりでびっくりするから。(20代女性)
小室哲哉の若い頃の髪型は中性的な長髪
小室哲哉さんの若い頃の髪型といえば、中性的な長髪の髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。
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— タワーレコード オンライン (@TOWER_Online) June 1, 2018
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時代の最先端を行くアーティストとして、とても洗練された印象を受けますね。
彼の美しい顔立ちに合わせ、作り上げられていったヘアスタイルだったのではないでしょうか。
アーティストとしてイメージを確立したかったのかもしれないね。
まとめ
今回は、小室哲哉さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。