俳優や歌手として活躍する加山雄三さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、加山雄三さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
加山雄三のデビューのきっかけや時期は?
加山雄三さんのデビューのきっかけや時期は、1960年春に東宝へ入社し、同年『男対男』で映画デビューを果たしました。
1960年、俺は東宝に入った。給料は5万円。電車に乗って成城にある東宝撮影所に通った。俺は、入社した年に三船敏郎さん主演の『男対男』でデビューして、『独立愚連隊西へ』で主演した。
引用元:婦人公論
1960年・谷口千吉監督『男対男』。
— 大久保マコト (@makoto_ookubo) February 6, 2018
三船敏郎&池部良の二大スターが主演した豪華な娯楽活劇。加山雄三のデビュー作でもある。
佐藤勝による力強いタイトルテーマは、翌年の黒澤明監督『用心棒』予告編などにも使用された。 pic.twitter.com/uXwdmsc9iR
加山雄三さんは、当初俳優になるつもりはありませんでした。しかし、就職の時期になって『他に何もやることないよな』と考え、俳優の道に進んだと語っています。
翌年の1961年には『夜の太陽』で歌手としてもデビューを果たしました。
「俳優には全然興味がなかった。でも、就職する段階になって『他に何もやることないよな』って」と、俳優の道に進んだいきさつと、デビュー後に一気にスターダムに上り詰めていく様子を語ります。
引用元:めざましメディア
デビュー当初はいじめられるかもしれないと、不安だったそうだよ!
加山雄三の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
加山雄三さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
加山雄三さんは、1937年4月11日に神奈川県横浜市で、父親は俳優の上原健さん、母親は女優の小桜葉子さんの間に生まれました。
加山雄三さんのお母様は小桜葉子さんと言う女優さんで、お父様は俳優の上原謙さんですが、小桜さんは若い頃、和製リズと呼ばれていたそうです。なるほど、エリザベス・テイラーに似てますね pic.twitter.com/xTkFFRcYCZ
— 森永タミー (@tammy_morinaga) June 25, 2023
生後8ヶ月まで横浜市で、その後1歳9ヶ月まで東京都大田区田園調布で過ごしました。
しかし、1歳9ヶ月の時に大腸カタルを患ったことがきっかけとなり、父親が息子の健康を考えて、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎市へ引っ越しました。
その後、茅ヶ崎での生活で体調も良くなり、湘南の海との出会いをもたらしたことが『海の若大将』として知られるきっかけとなりました。
幼少期は病弱な子供だったそうだよ
幼少期に茅ヶ崎で過ごした #加山雄三 さん。
— 茅ヶ崎市観光協会 (@chigasakikankou) August 28, 2022
駅から海に向かう通りは #雄三通り と名付けられていて、2020年にデビュー60周年を迎えたことを記念したモニュメントがあります✨https://t.co/5vSvv6lOAx#海その愛 #加山雄三さんありがとう #永遠の若大将 pic.twitter.com/5z6aQR9gbz
また、幼少期の頃から父親の影響でクラシック・ジャズを聴いていた加山雄三さん。
14歳の時には、音楽への情熱も芽生え始め、有名ピアニストのレオニードに弟子入りを願い出るほどだったといいます。
14歳の時にレオニードにピアノの弟子入りを願い出た加山。しかし、願い叶わず断られてしまいました。その後は、レオニードが推薦してくれた別の先生に音楽指導を受けることに。この頃に初めて作曲した曲は、後の代表曲である『夜空の星』の原型になったそうです。
引用元:うたびと
その他にも、小学校時代の家庭教師が東京商船大学の学生だったことから、船への興味もあったそうです!
10代
加山雄三さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1948年(11歳):スキーを本格的に開始
- 1953年(16歳):慶応高校に入学
- 1955年(18歳):慶応大学法学部政治学科入学
加山雄三さんは、1953年に慶應義塾高校に入学し、学生生活では様々な分野で活躍していきました。
高校の『伸び伸びした校風』に惹かれて入学したそうだよ!
高校時代の活動では、ボクシングに、バンド活動を始め、冬になるとスキーにも参加していたのだそう。
朝刊連載「時代の証言者 若大将の航跡」~加山雄三さんの8回目です。ピアノに続き高校時代にギターを習得。そして大学時代はバンド活動も始めました。一方、船造りは本格化し大学生の時にはモーターボートも製造。国体出場を果たしたスキーも含め、万能ぶりを発揮していました。(浩) pic.twitter.com/9X1twma2XA
— 読売新聞 編集委員室 (@y_seniorwriters) October 21, 2024
特にスキーの技術は目覚ましく成長し、スキー競技大会に出場するほど上達していきました。
幼少期からスキーに親しんでおり、5歳頃から滑り始めたという加山雄三さん。しかし、本格的にスキーを始めたのは11歳の頃からで、正式なコーチを受けたことはなく、叔父や選手の滑り方を手本にして独学で技術を磨いていったそうです!
国体出場経験もある。歌手加山雄三(77)も国体に出場。スキー好きが高じて、91年に新潟県湯沢町にスキー場「加山キャプテンコースト」を開業(11年に閉鎖)した。
引用元:スポニチ
朝刊連載「時代の証言者 若大将の航跡」~加山雄三さんの7回目です。慶応高校に進学した加山さんはスキーに熱中します。冬は友人とスキー合宿。競技にも出場するようになり、大学の時にはついに国体出場も果たしました。興味を持ったらとことん突き詰める性格だったようです。(浩) pic.twitter.com/CIKapz5Ghu
— 読売新聞 編集委員室 (@y_seniorwriters) October 20, 2024
高校卒業後は、慶應義塾大学法学部政治学科で過ごしました。マリンスポーツやスキーなど様々な経験を積んだ時期となり、特にスポーツ面での活躍が目立ちました。
加山雄三さんファンに聞いた、加山雄三さんの10代で印象に残っている出来事
慶應義塾大学法学部に入学したことです。頭が良さそうには感じていましたけど、まさか慶應に入学出来るほどとは思わず驚きました。(50代男性)
慶應義塾大学に入学したということを知って驚きましたね。昔から理知的な方だとは思っていましたが本当だったんですね。(30代男性)
慶應義塾高校を卒業する。バンドやボクシングを高校生時代にしていたので、楽しい高校生活であったと思う。(40代女性)
20代
加山雄三さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1960年(23歳):東宝に入社。三船敏郎主演の『男対男』でデビュー
- 1961年(24歳):『若大将』シリーズがスタート
- 1965年(28歳):レコード『君といつまでも/夜空の星』発売
1960年、加山雄三さんは20歳で東宝に入社しました。当時の給料は5万円だったそう。
そんな中、入社した年に三船敏郎主演の『男対男』でデビューし、『独立愚連隊西へ』で主演を務めました。
『加山雄三』の名前の由来は、加山さんおばあさんが占い師に相談し、その占い師が縁起のいい名前を10個ほど考案したそう。その中から『加山雄三』を選んだのだと言います。
「“加”は加賀百万石から。“山”は日本一の富士山から。“雄”は英雄から。“三”は東宝の創業者の小林一三から」
引用元:婦人公論
本名は池端 直亮(いけはた なおあき)さんだよ!
翌年の1961年、24歳の時『若大将』シリーズがスタートし、同時にレコード『大学の若大将/夜の太陽』東芝レコードより歌手デビューを果たしました。
ブラックプレジデントで沢村一樹が大学に行っているけれど、
— shofaisal (@shofaisal) April 20, 2014
やはり加山雄三の若い頃に似ている。これが大学の若大将。 pic.twitter.com/3sY93L8ig5
1965年12月、『君といつまでも』が発売されました。この曲は大ヒットを記録し、300万から350万枚の売り上げを達成したのではないかとされています。また、その人気は日本国内にとどまらず、アメリカのバンド、ザ・ベンチャーズもカバーしました。
母が、加山雄三のコンサート後のオフ会帰りに家に遊びにきて、
— けんけんコミケ29日 (@jetkenken) January 27, 2018
加山さん本当イケメンだった!ってはしゃいでた。
小学生から50年もおっかけやってる筋金入りの加山雄三ヲタだけど、
還暦迎えてもヲタ活動をエンジョイできるのは幸せなことですな。
80歳過ぎでも頻繁にライブやる加山雄三も凄い。 pic.twitter.com/hBCAsI47Nm
この曲で、1966年の第8回日本レコード大賞特別賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場しました。加山雄三さんは俳優としてだけでなく、歌手としても活躍していきました!
加山雄三さんファンに聞いた、加山雄三さんの20代で印象に残っている出来事
1961年に『夜の太陽』で歌手デビューしたことです。ここから加山さんの歌手人生がスタートしたわけですし、印象に残っています。(50代男性)
歌手としての一面が1番印象に残っていますね。やっぱり歌の伸びやかな感じは彼にしか出せない味で本当に素晴らしいです。(30代男性)
1965年に発売されたレコード『君といつまでも』が300万枚を超える売り上げを記録する。この歌は聞いたことがあるが、名曲であると思う。(40代男性)
30代
加山雄三さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1969年(32歳):映画『ニュージーランドの若大将』主演
- 1970年(33歳):女優の松本めぐみと結婚
- 1972年(35歳):第一子の長男が生まれる
加山雄三さんが主演する『若大将シリーズ』は、1961年から1971年まで続きました。このシリーズは、大人気の映画シリーズとなり、青春、恋愛、スポーツをテーマにした作品となっています。
当初は3作品の予定だったそうですが、ヒットにより全18作品に拡大されたようです!
第1作の『大学の若大将』では水泳、2作目の『銀座の若大将』では拳闘、3作目の『日本一の若大将』ではマラソンをやった。
これで3作。でも、3つでは終わらなかった。若大将シリーズはヒットしたからね。全部で18本つくった。
引用元:婦人公論
著書『#俺は100歳まで生きると決めた』が話題の #加山雄三 さん。
— ホイチョイ的映画生活~この一本~ (@hoichoi_channel) June 9, 2024
御年87歳にして、ニックネーム「#若大将」そのままに人生を駆け抜けておられます。
世代を超えて人気の同シリーズを、馬場監督が徹底解説!是非ご覧ください。
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若大将シリーズは、U-NEXTで配信中! https://t.co/MpW7HtGSMl pic.twitter.com/p9OTgk5Alw
1970年、加山雄三さんは、女優の松本めぐみさんと結婚しました。お2人の出会いは映画『エレキの若大将』で共演したことがきっかけで交際を始め、結婚となったようです。
加山雄三さんは、結婚直前に経営していたホテル『パシフィックホテル茅ヶ崎』が倒産し、23億円の負債を抱えることになりました。そのため、多くの困難を乗り越えながらも苦しい時期を過ごしたと言います。
「どうやって完済したかって、働いた。それこそ食い扶持だけ残して、あと全部返す。働いちゃ返す。ある時は本当に卵1個しかない、1日ね。ご飯を卵1個かきまぜて夫婦で分けてよ、しょうがないんだもん。苦労したね。人間は練って練って練りまくったら、いいところいくね最終的に。俺はそう思うよ」と働いてはお金を返す極貧生活を続け、10年間で返し終わったと懐かしんだ。
引用元:スポニチ
加山雄三の奥さんの松本めぐみ、
— .🐇 っ୨ৎ ✩ (@y_yado_y) September 6, 2022
美人すぎる。 pic.twitter.com/z5Wqi3aLMl
一つの卵を夫婦で分け合って、卵かけご飯にして食べていたなんていうエピソードも!
倒産騒動が起きたのは、結婚した年です。カミさんは僕より10歳下で、映画の共演で知り合った頃は、まだ17歳だった。5年くらいしてから結婚しましたが、いきなりどん底に。返済が間に合わなくて、出資者に土下座して謝ったりもしました。
引用元:婦人公論
10年で返済したんだって!
加山雄三さんファンに聞いた、加山雄三さんの30代で印象に残っている出来事
ルスツスキー場で事故に巻きこまれ、左肩を骨折したことです。私自身左肩を骨折して治療で苦しんだことがあるだけに、加山さんも大変だったろうな~と印象に残りました。(50代男性)
君といつまでもという楽曲がとても魅力的です。加山雄三さんの声の感じとすごくマッチしているので一度聴いてほしいです。(30代男性)
1969年に映画『フレッシュマン若大将』に出演する。このシリーズは加山雄三さんの代表作の一つであると思う。(40代男性)
40代
加山雄三さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1977年(40歳):映画『八甲田山』出演
- 1982年(45歳):『大型5級海技士航海科』の免許を取得
- 1983年(46歳):光進丸にて2ヶ月間の長期航海
小学校時代、家庭教師に来ていたのが東京商船大学の学生で、船の設計図を見せてもらったことがきっかけとなり、船への興味が湧いてきた加山雄三さん。
1982年に、『大型5級海技士航海科』の免許を取得し、この5級海技士の免許以外にも、小型船舶免許など数々の船舶関連の資格を取得していきました。
【光進丸ニュース】
— ぺけみに (@pekemini_w65s) August 23, 2015
これが軍艦光進丸の装甲を無敵のものとするスーパーシールドです。。。
「このシールドなら、ここらへんに水爆を直撃されても、かすり傷一つ付かないんだよぉ!
はっはっは。幸せだなぁ!!」
加山も光進丸も怖ぇよ!! pic.twitter.com/zRwB9sK6fF
加山雄三さんは『光進丸』という名の船を所有し、この船は加山雄三にとって特別な存在でした。
1978年には光進丸をモデルにしたシングル『光進丸』がリリースされ、テレビ番組でも披露されました。
自ら船の設計をしたんだって!
その後の1983年に、加山雄三さんは光進丸でサイパンやテニアン、グアムを巡る約2ヶ月間の長期航海を行いました。加山雄三さんにとって光進丸での長期航海は、海への愛を体感する重要な出来事だったようです!
「かねてより、私は、海洋環境の深刻な汚染に心を痛めておりました。海を愛し、海の恩恵を享受した自分の体験から、今、自分がすべきこととして、次代を担う子供たちや若者たちと共に、海の再生に関わる活動を始めたいと思うに至りました」と理念を明かした。
引用元:ORICON NEWS
加山雄三さんファンに聞いた、加山雄三さんの40代で印象に残っている出来事
『NHK紅白歌合戦』で白組司会を務めたことです。これまで歌手として何度も『NHK紅白歌合戦』には出演されていますけど、とうとう司会まで務めるようになったかと驚きました。(50代男性)
この愛いつまでもという曲が本当に名曲だと思います。日本の趣を最大限に感じられるテイストでかなり魅力に溢れた曲でした。(30代男性)
1986年にNHKの歌番組『紅白歌合戦』で白組の司会者を務める。加山雄三さんは歌も上手いのでこの番組の司会はぴったりであると思う。(40代男性)
加山雄三の若い頃の髪型はアイビーカット
加山雄三さんの若い頃の髪型といえば、爽やかな短髪の髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。
加山雄三さんの若い頃の髪型は、ケネディーカットやアイビーカットと呼ばれるスタイルでした。この髪型は、1960年代の若大将シリーズで加山雄三さんが演じたキャラクターのトレードマークとなり、多くの若者たちの憧れの的となりました。
急にしょーこの加山雄三のモノマネを思い出して、加山雄三をググっていたら、加山雄三って昔イケメンだったのね! pic.twitter.com/Tjg5pcI0BN
— ayami_tsuchida (@ayaaam) March 1, 2013
この特徴的な髪型は、シンプルさとスタイリッシュさから、清潔感があり知的な印象を与えていたようです!
アイビーカットは、1960年代にアメリカのアイビーリーグの大学生の間で流行したヘアスタイルだよ!
まとめ
今回は、加山雄三さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。