歌手や女優として活躍する和泉雅子さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、和泉雅子さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
和泉雅子のデビューのきっかけや時期は?

和泉雅子さんのデビューのきっかけや時期は、幼少期からの芸能活動をしており、10歳で劇団若草の子役として活動を始めました。
その後、1961年の14歳の時に日活のプロデューサーにスカウトされ、日活に入社しました。これが和泉雅子さんの女優としての本格的なデビューとなりました。
東京・銀座生まれ。14歳から女優として活躍し、日活時代には吉永小百合、松原千恵子と並ぶ「3人娘」と呼ばれた青春スターだ。
引用元:Asagei
若い頃の和泉雅子はキレイだったんだよな(北極へ行く以前の・・・) pic.twitter.com/iIeQG9t0JC
— motoichi (@million7000) October 28, 2016

日活入社後、和泉さんは青春映画に多数出演していくよ!
和泉雅子の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

和泉雅子さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
和泉雅子さんは、1947年7月31日にに東京都中央区銀座4丁目(三原橋)で生まれました。
実家は寿司割烹店を営んでおり、そのため幼少期にはおやつがマグロの中落ちだったというエピソードにも!
10歳で劇団若草に入団し、その後、柳家金語楼に憧れて金語楼劇団にも参加し、喜劇を目指していたそうです。
多忙な両親に代わり、4、5歳の頃から一人で起きて弟の世話をし、幼稚園に通わせていたというしっかり者だったようです!

和泉家は戦国武将の竹中半兵衛の末裔とされているんだって!
10代
和泉雅子さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1957年(10歳):劇団若草の子役になる
- 1961年(14歳):日活に入社し、吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに『日活三人娘』と呼ばれる
- 1963年(16歳):『非行少女』で主演
和泉雅子さんは1957年、10歳の時に劇団若草に入団しました。当時の和泉さんは学校がとても嫌で、学校に行かなくて済む方法として子役になることを考え、新聞広告で見つけた劇団若草に応募しました。
オーディションは散々だったようですが、『見た目がきれいだから』という理由で合格したといいます。
1961年、14歳で日活に入社し、青春映画に多数出演しました。吉永小百合さんや松原智恵子さんとともに『日活三人娘』と呼ばれ、絶大な人気を得ていきました!
和泉雅子、吉永小百合、松原智恵子の日活三人娘。
— 西条昇の浅草エンタメ散歩 (@saijoasakusa) April 13, 2018
現在は吉永小百合が飛び抜けて大女優との評価を得ているが、昭和40年前後は三人それぞれ日活の青春物を中心に鎬を削っていた。
この写真では何故か小百合ちゃんは前髪パッツンだが。 pic.twitter.com/jdRhRafiDE
吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、多くの青春映画に出演した松原智恵子が、当時の吉永について語る。
引用元:NEWSポストセブン
1963年には、主演した『非行少女』での演技が高く評価され、エランドール新人賞や、モスクワ映画祭金賞などの数々の賞を受賞しました。
和泉さんの10代時代の人気は非常に高く、雑誌『近代映画』の『オールスター投票・女優部門』では、1964年から1968年まで5年連続でベスト10入りを果たしました!

当時の和泉雅子さんの美しさは印象的ですね
和泉雅子さん
— てこわん (@tetsutetsu0605) April 6, 2020
凛として、涼やかで、
眼差しに、温かみのある人が、好きだな。#和泉雅子 さん pic.twitter.com/6rk5MXPWsc
和泉雅子さんファンに聞いた、和泉雅子さんの10代で印象に残っている出来事


日活三人娘として有名になったことが印象的でした。当時の写真から、とてもかわいかったことが伝わってきたからです。(20代女性)

吉永小百合、松原千恵子とともに日活3人娘と言われていたことが素晴らしいですね。3人とも本当に美しい姿で人気が出るのも理解できます。(30代男性)

劇団若草に所属。高橋一生さんや山本耕史さんなど劇団若草出身の子役たちはずっと芸能界で活躍し続けているから。(20代女性)
20代
和泉雅子さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1967年(20歳):山内賢さんとのデュエット『東京ナイト』リリース
- 1971年(24歳):日活が路線を成人映画に転換し、本格的にテレビ活動へ
- 1974年(27歳):フジテレビ『銭形平次』出演
20代になった和泉雅子さんは、とても忙しい日々を送っていました。自身の言葉によると、『4本ぐらいの映画を掛け持ちして、午前中はこの映画、午後からこの映画、夜からこの映画、明日の朝はこの映画・・・』というスケジュールをこなしていたそうです。

多忙な毎日でも楽しかったと語っているよ!
1966年には、山内賢さんとのデュエット『二人の銀座』が大ヒットまた、翌年には『東京ナイト』をリリースし、歌手としても人気を集めていきました。
昨日に続きデュエット曲、“銀座”繋がり、しかも曲のヒットを受けコチラも映画化。EP盤、和泉雅子/山内賢「二人の銀座」(1966年リリース)を聴了。ベンチャーズ作曲のメロディラインが秀逸! 和泉雅子さんは冒険家としても有名ね。山内賢さんは私の世代だと『あばれはっちゃく』シリーズの先生かな。 pic.twitter.com/5L7GrnlVpX
— 🌈バイナルテック🌈@プロレスファン (@binaltech0123) February 10, 2019
1970年代からは、日活の路線変更に伴い活動の場をテレビと舞台に移し、数多くのドラマに出演していきました。
女優としての活躍が目覚ましく、多忙ながらも充実した日々を過ごしていたことがうかがえますね!
「少年ジェット」出てた時の和泉雅子…めっちゃめちゃかわいいでしょ…
— sunny (@OreSunny) September 11, 2022
その後北極行ったり冒険家なるのに体力要るからわざと太ったんですョね… pic.twitter.com/B16mQvxMec
和泉雅子さんファンに聞いた、和泉雅子さんの20代で印象に残っている出来事


映画『あゝひめゆりの塔』に出演されていたことが印象的です。当時を知らない私でも、見たことがある有名な作品だからです。(20代女性)

大河ドラマの平家物語での芝居がとても良かったですね。大河の中でもかなり名作の位置付けなので一見の価値ありですね。(30代男性)

山内賢さんとのデュエット曲がヒットする。昔はこうした男女のデュエット曲がたくさん流行っていたけど、今ではめっきり見なくなったから。(20代女性)
30代
和泉雅子さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1983年(36歳):テレビ東京のレポーターとして南極へ
- 1984年(37歳):『地球のてっぺんに立ちたい』という思いから北極点への挑戦を決意
- 1985年(37歳):北極点到達に挑戦しましたが断念
和泉雅子さんは、1983年12月から1984年1月まで、テレビ東京で放送されたドキュメンタリー番組のレポーターとして南極を訪れ、空と海ばかりで『世界にはこんな所があるのか~!』と、その壮大な自然に感銘を受けたといいます。
南極から帰って来てからすぐに、北極点に行く準備を始めたのだそうです!
1985年1月28日、最初の北極点到達に挑戦しましたが、気温上昇による海面の出現で前進できず、北緯88度40分(北極点まで148km)地点で断念しました。
この挑戦により1億円以上の借金を抱えてしまいましたが、これを完済して4年後に再挑戦を決意しました。
なんと女優生活27年で蓄えた7000万円を自己資金に6000万円を借金し、計1億3000万円をつぎ込んで85年、北極点を目指す旅に出発。しかし、北極点まで160キロの地点で、無念にも氷の裂け目に阻まれ、到達断念を余儀なくされてしまう。
引用元:Asagei
和泉雅子さんは、この挑戦を成し遂げるために、極地や登山に耐えられる体力をつけるため意識的に体型を変化させるほど、北極の魅力に取り憑かれたと語っています。

白い氷の世界に立ってみたいと強く思っていたんだって
古い編みもの本の表紙モデル、見たことあるなぁと思ってたら和泉雅子さんだった!めちゃ美人〜。南極に行ったイメージが大きかったからびっくり。ちなみにこれは、昭和43年の本。メーカーさんの広告も楽しい🤣 pic.twitter.com/kEl8diXlTK
— ぴぴ (@sora66sora) February 27, 2021
和泉雅子さんファンに聞いた、和泉雅子さんの30代で印象に残っている出来事


ドキュメンタリー番組がきっかけで、南極に行ったというエピソードが印象的でした。ここから、彼女の冒険家の道が開けてきたと思ったからです。(20代女性)

水戸黄門での芝居がとても良かったですね。スポット的に出てきたのですがやっぱり見た目が綺麗なので目を惹きますね。(30代男性)

北極点到達を目指す。女優さんとして活躍していた人が、ある日突然北極点を目指すと言い出したら絶対にびっくりするから。(20代女性)
40代
和泉雅子さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1989年(42歳):日本人女性として初めて北極点到達を達成
- 1989年(42歳):『笑ってよ北極点』出版
- 1994年(47歳):『ハロー・オーロラ!』出版
1989年5月10日、42歳の時に和泉雅子さんは、海氷上から日本人女性として初めて北極点到達を果たしました。夢をあきらめきれず2度目の挑戦で、4年前に断念した北極点到達を成功させました。
和泉さんは、北極の大自然に『この世の中には、お金で買えないものもある』ということを教えてもらったと言います。
「(北極点に到着した瞬間は)何も思わなかった。もう、足がよれよれでね、くたびれちゃっていたから。『これでやっと帰って餃子で一杯か!』くらいで。逆に帰ってきて1週間ぐらい経ってから『ああ、本当に北極点に到達したのか』って。いやぁ~、でも面白かったわよ~。遠征ってこんなにも楽しいものなのか、って」
引用元:Asagei
まこちゃん、可愛いだけではない。北極点到達の冒険家でもある。一度目は断念を余儀なくされ、二度目の挑戦で北極点に到達された。可愛く、そして凛々しい方#和泉雅子🍀
— てこわん (@tetsutetsu0605) September 4, 2018
著作「私だけの北極点」(一回目)
著作「笑ってよ、北極点」(二回目) pic.twitter.com/qbmTUdw8Yb
北極点到達後も、和泉さんは極地への情熱を持ち続け、グリーンランドなどの北極地方に約50回訪れ、ほかにも登山に熱中し始め極地や登山に耐えられる体力づくりに励みました。
女優としての仕事も続けテレビドラマに多数出演し、和泉さんの演技は、北極での経験によって新たな深みと輝きを得たと言われているようです。
40代の和泉雅子さんは、芸能活動と冒険家としての挑戦を両立させ、多方面で活躍した時期となったようですね!

極地の強い紫外線によって顔にシミができて、過去と現在の容姿の落差が話題となったよ!
和泉雅子さんファンに聞いた、和泉雅子さんの40代で印象に残っている出来事


北極点到達に再挑戦し、成功したことが印象的でした。日本人女性として、偉業を成し得た瞬間だと思ったからです。(20代女性)

渡る世間は鬼ばかりでの芝居が本当に良かったです。リアルタイムで見ていてすごくナチュラルな芝居をしていると感動しました。(30代男性)

日本人女性として初めて北極点に到達する。とても輝かしい称号だし、しかもこの記録を女優さんが打ち立てたことでさらに驚きが何倍にも膨れ上がるから。あああ(20代女性)
和泉雅子の若い頃の髪型は黒髪のロングヘアー

和泉雅子さんの若い頃の髪型といえば、黒髪のロングヘアーを思い出す方も多いのではないでしょうか。
1960年代に日活映画で活躍していた和泉さんは、長い黒髪を活かしたスタイルが多く見られました。清楚でありながらも個性的な印象を与える髪型が印象的です。
『日活三人娘』として黒髪を流したり、軽くウェーブをかけたりしたスタイルが多く、当時の流行を反映していたのかもしれませんね!

綺麗な和泉さんにとってもお似合いです!
和泉雅子さまの娘時代の麗しい和装姿。水色の爽やかな色合いが瑞々しさを引き立ててます。#振り袖#女優 pic.twitter.com/KfrVaFe5E8
— パンラ (@panra428) September 27, 2020
まとめ

今回は、和泉雅子さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。