元プロ野球選手で、現在は解説者や評論家として活躍する原辰徳さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、原辰徳さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
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原辰徳のデビューのきっかけや時期は?

原辰徳さんのプロ野球デビューのきっかけや時期は、1980年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツに1位指名されたことです。
4球団が競合する中、藤田元司監督が1位クジを引き当て、巨人への入団が決まりました。
デビュー前から注目を集めていた原さんは、長嶋茂雄さんが『できることなら僕の3を譲りたい』と言うほど期待されていました。

結果、高田繁さんの引退に伴い背番号8になったよ
Twitterで鳥取城北の難波君に女子達がキャーキャー言っててすでにまとめサイトまであったので見てみたら、自分世代から見るととっても大人びているというか老け(ryゲフンゲフンな18歳だなぁとwちょっと若い頃の原辰徳にも似てる気がするwいずれにしろTHE昭和顔!https://t.co/P4SfVOXgcm pic.twitter.com/ETX06Bl96c
— 🐶🐕🐈 (@klimomomnog) August 11, 2018
原辰徳の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

原辰徳さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
原辰徳さんは。1958年7月22日に福岡県大牟田市で生まれました。
野球一家に生まれ、父親も東海大学付属相模高等学校の野球部監督を務めていました。
「なぜか私は、東海大相模高に行きたいと言ったんですね、自分から」と、貢氏が監督を務める東海大相模高に行ったことを回顧。
引用元:スポニチ
幼少期は東洋高圧(現・三井化学)大牟田の社宅に住んでおり、同じ社宅には偶然にも後にプロ野球選手となる真弓明信さんも住んでいたそうです!
幼少期から転居や転校を経験しながらも、野球への情熱を育んでいったようです。

幼い頃から野球選手になりたい、特に巨人に入りたいという夢を持っていたんだって!
10代

原辰徳さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1974年(15歳):東海大相模高校に入学。1年生から三塁手のレギュラーとして活躍
- 1975年(17歳):夏の選手権大会で準々決勝まで進出
- 1976年(18歳):夏の選手権大会2回戦で敗退
1974年、原辰徳さんは東海大相模高校に入学し、1年生から三塁手のレギュラーとして活躍しました。高校時代では、甲子園に4回出場する機会を得ました。
原さんは甲子園の各大会で、後にプロ野球でも活躍する定岡正二さん、宇野勝さん、土屋正勝さんなどと名勝負を繰り広げたそうです。
また、地区大会の神奈川県大会では、川崎球場を満員にするほどの『原フィーバー』を巻き起こしたのだとか!
その後、高校3年時のドラフト会議で指名される可能性があり、一時はプロ入りを考えましたが、その年の巨人は『上位は投手を指名する』という方針だったため、『巨人に入れないなら進学する』と最終的に大学進学を選択しました。

東海大学の政治経済学部経済学科に進学しているよ
答えは「獣医師」でした
— スポーツ報知 巨人取材班 (@hochi_giants) December 14, 2020
原監督は少年時代、犬の世話が大好きだった。犬の飼育書を読み、お産に立ち会ったこともあり、父・貢氏は中2時の大ケガで辰徳少年に獣医師を勧めたが、無事に右足首の複雑骨折が回復。その後は野球に打ち込んだ
【クイズG】は紙面にも掲載、クイズGへのご意見も募集しています pic.twitter.com/79PWSr6KLQ
原辰徳さんファンに聞いた、原辰徳さんの10代で印象に残っている出来事


東海大学付属相模高等学校野球部に所属。父親が監督を務めていた野球部に入部するなんてまるで野球漫画の主人公感があるから。(20代女性)

当時のドラフトで巨人が上位は投手を指名することが決まっていたため、プロ入りを断念して大学に進学したこと。桑田とかの流れをみているからこそ、野手だと後回しにされることが多かったように感じられました。(40代男性)

高校は東海大相模に進学して甲子園に4回出場しているのがすごいですね。こんな経歴の選手他にいないと思うので凄すぎます。(30代男性)
20代

原辰徳さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1980年(22歳):ドラフト1位指名を受け巨人に入団
- 1983年(25歳):打点王とMVPを獲得
- 1986年(28歳):自己最多の36号本塁打後、左手有鉤骨骨折で一軍登録を抹消
1980年、22歳でドラフト1位指名を受け巨人に入団した原辰徳さんは、華々しいデビューを飾ります。1年目の1981年には新人王を獲得し、チームも日本一に輝きました。
翌年には、多くの大手企業のCMに出演し、『エイトマンスマイル』で人気を集め、巨人戦ナイター中継の主役として、当時の日本で最も頻繁にテレビに登場する野球選手となりました。1983年には打点王とMVPを獲得し、その実力を証明しました。
王さんから「中心打者、4番打者というのは、特に巨人軍の場合は常にゲームに出続けるのが重要だ」と教えられました。ファンは遠くからも見に来てくれる。そのことを強く感じて野球をやる。そして「チームの勝敗を背負う責任からは、もう逃れられない」ということを言われましたね。
引用元:読売新聞
#原辰徳氏 が次期 #巨人 監督ですか。団塊ジュニア世代の僕にとっては、入団以来スーパースターでした。イケメンで格好良かったですね。
— 中野渉@朝日新聞 (@watarunakano) October 4, 2018
こんなに何度も監督を任されるとは思ってもいませんでしたけど。#原監督 #高橋監督の後任 #由伸監督 #ジャイアンツ #原辰徳 pic.twitter.com/FTZ0Ii1eI2
しかし、27歳の頃から厳しい批判をされるようになります。シーズン34本塁打、94打点という好成績を残しながらも、『巨人史上最低の4番』とマスコミから叩かれるようになりました。
28歳の1986年には、自己最多の36号本塁打を放った後、左手有鉤骨骨折し一軍登録を抹消されるという不運に見舞われるなど、激動の時期となりました。

巨人の4番打者として輝かしい成績を残した時期でもあるよ!
原辰徳さんファンに聞いた、原辰徳さんの20代で印象に残っている出来事


巨人の4番バッターとして活躍。4番は一番実力のあるバッターが背負う番号で、監督としての姿しか見たことがなかったけど選手としても凄い人だったから(20代女性)

1980年のアマチュア野球世界選手権に、大学生としてただ一人日本代表選手に選出されたこと。大学4年の時の明治神宮野球大会での活躍から「長嶋茂雄の再来」とまで言われているほど活躍していて納得しました。(40代男性)

巨人に入団して長嶋監督の信頼をかなり勝ち取っていたというのが印象的です。背番号3を譲りたいとまで言わしめた名選手です。(30代男性)
30代

さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1993年(35歳):12年連続20本塁打の記録が途絶える
- 1994年(36歳):左アキレス腱部分断裂で開幕2軍スタート
- 1995年(37歳):現役引退
30代に入ると、原辰徳さんは左翼手へのコンバートを経験し、アキレス腱痛などの故障に悩まされるようになりました。しかし、もう終わったと言われるたびに劇的なホームランで反撃していました。
その後、松井秀喜さんのドラフト入団や落合博満さんのFA移籍などチーム内での競争が激化し、出場機会が減少していきました。
左アキレス腱部分断裂で開幕を2軍で迎えた94年、中日からFAで加入した落合博満にその座を明け渡すことになる。95年はともに元ヤクルトの広澤克実、ジャック・ハウエルが入ってきて先発出場が激減。横浜(DeNA)の近藤昭仁監督から「ウチに来ないか?」と声が掛かるなど複数球団から誘われたが、巨人で現役生活を全うすることを決意した。
引用元:スポニチ
12年連続20本塁打の記録が途絶え、初めて規定打席に到達できず苦難する時期となり、原辰徳さんは1995年シーズンを最後に現役を引退することとなりました。
東京ドームで行われた広島戦が引退試合となり、原さんは『4番・三塁手』としてフル出場し、7回裏に左中間スタンドへ現役最後の382本目の本塁打を放ちました。
オープンカーで場内を一周した若大将。挨拶の最後をこう締めくくった。
「感無量…。その言葉しか出てきません。皆さんの声援は生涯忘れることはありません。プレーヤーとしての夢は終わったわけですが、僕の夢には続きがあります」
引用元:スポニチ

テレビ中継の瞬間視聴率は32.4%を記録したんだって!
原辰徳。昔も今も応援してる。
— type-R (@giselle_dqx) March 8, 2019
多分まだ下敷き持ってるわw
#お前らプロ野球の最初の推し誰だよ pic.twitter.com/fL0n46iLb5
原辰徳さんファンに聞いた、原辰徳さんの30代で印象に残っている出来事


「サンデースポーツ」でキャスターを務める。サンデースポーツは今でも続いていて馴染みのある番組だったので、まさか過去に原さんが出演されていたとは驚きだったから。(20代女性)

1988年に、3割30本塁打を記録し、ドームに変わり全体が不調な中、本塁打王争いに参加していて、その記録が松井秀喜が38本塁打を記録するまで現れなかったこと。怪我が多かったイメージが上書きされました。(40代男性)

18打席連続無安打というスランプに苦しんだということを知って驚きましたね。こんな名選手でもやっぱり調子が悪い時があるんですね。(30代男性)
40代

原辰徳さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1998年(40歳):巨人の一軍野手総合コーチに就任
- 2001年(43歳):巨人の監督に就任
- 2004年(46歳):2年間巨人軍特別顧問を務める
原辰徳さんが40代の頃には、読売ジャイアンツの監督を務めていました。2001年秋に長嶋茂雄さんの後を継いで監督に就任した際、その力量に不安を抱くファンもいたと言います。
しかし、就任1年目にしてリーグ優勝に導いき、無傷のストレート4連勝で『監督初年度での日本一』を達成したしました。
原辰徳さんの監督時代は、多くの優勝と日本一を経験し、巨人軍の黄金期を築いた時代として記憶されています。また、その後も巨人一筋で計17年間、輝かしい功績を残し巨人軍の歴代監督で最多勝利を記録しています!
「元来、あまりマイナスのことは考えない人間ですから。監督というのは自分で『やりたい』と思ってやれるポジションではない。ある程度経験というのはある人間だと思っています。しかし非常に心地よい緊張感の中で、まさに初心に戻ってユニホームを着られる。大きな希望、目標に向かって戦いが始まると思っています」と原点回帰を掲げた。
引用元:スポーツ報知

チームの再建や強化に貢献しているよ
【#練習風景から🏟】 #原辰徳 監督(撮影・福島範和) #巨人 #giants #ジャイアンツ #サンスポ pic.twitter.com/DiH6mIcmY5
— 巨人情報@サンスポ (@sanspo_giants) October 27, 2021
原辰徳さんファンに聞いた、原辰徳さんの40代で印象に残っている出来事


巨人の監督に就任。私が幼い頃から監督して巨人を引っ張っていたのは原さんだったので、原さんといえば巨人の監督というイメージが一番強いから。(20代女性)

95年に引退してから98年に一軍コーチに就任し復帰してきたこと。そのまま解説者などで芸能界入りみたいになると思っていたので、プロ野球界に復帰して良かったと思う反面、テレビでも見てみたかったです。(40代男性)

巨人の監督として躍動していた姿がとても印象に残っています。すごく愛嬌のある監督で選手が活躍した時の原ポーズはとても魅力的です。(30代男性)
原辰徳の若い頃の髪型は黒髪の短髪ヘアー

原辰徳さんの若い頃の髪型といえば、黒髪の短髪を思い出す方も多いのではないでしょうか。
原辰徳さんが若手選手だった1980年代初頭は、プロ野球界全体で体育会的な雰囲気が強く、個性的な髪型は好まれない傾向にありました。そのため、黒髪の短髪で清潔感のある整った髪形をしていたのかもしれませんね!

原さんにお似合いですね!
原辰徳の若い頃が、菅野にそっくりwwwwwwwwwwwwwwwwww pic.twitter.com/xjlr3pMqPP
— ぽん (@___trtn) April 3, 2016
まとめ

今回は、原辰徳さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。