俳優や演出家などとして活躍する柄本明さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、柄本明さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
柄本明のデビューのきっかけや時期は?

柄本明さんは、高校卒業後一度商社に就職しますが、入社2年目の暮れに知り合いに連れられて早稲田小劇場で観た舞台に衝撃を受け、新演劇人クラブ「マールイ」に入団。テネシー・ウィリアムズの「ロング・グッドバイ」で初舞台を踏みます。演劇をしながら大道具のアルバイトを経験し、「自由劇場」を経て、1976年にベンガルさん、綾田俊樹さんと共に「劇団東京乾電池」を結成し、本格的に俳優としてのキャリアをスタートさせました。
――えっ? 何だろう(笑)。あ、そうだ。テネシー・ウィリアムズの『ロング・グッドバイ』にちょこっと出たのが初舞台ですね。でもマールイにいてもあんまりやることがなくて、大道具のアルバイトに精出していたんです。
引用元:婦人公論.jp

サラリーマンを経験していたのは意外!
柄本明の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

柄本明さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
柄本明さんは1948年11月3日、東京都中央区銀座に生まれます。実家は歌舞伎座の裏手にあり、東京大空襲で何軒か焼け残った家の二階に間借りをして暮らしていたそうです。映画好きの両親の影響で、映画を観るのが好きな子供だったのだとか。日曜になると100円をもらい、一日中映画館の中で過ごしたといいます。
でも五つ六つのころにそこから杉並区の下井草に引っ越して、日曜になると100円もらって一日中映画館の中。三本立てを繰り返し観てましたね。そのころは錦ちゃん(萬屋錦之介)が大好きで、毎年年賀状を書いたけどついに返事は来なかった(笑)。
引用元:婦人公論.jp
幼少期から多くの映画に触れた経験が、役者を目指した原点になっているのかもしれません。

ご両親は映画の話しかしないほどの映画好きだったそう!
10代
柄本明さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1964年(16歳):杉並区立中瀬中学校を卒業
- 1967年(19歳):東京都立王子工業高等学校機械科を卒業
- 1967年(19歳):商社に就職する
1964年、杉並区下井草にある杉並区立中瀬中学校を卒業します。1948年に開校した杉並区立中瀬中学校は、ミュージシャンの佐久間正英さんや女優の芳根京子さんなどを輩出しています。柄本さんの中学時代についてはあまり語られていません。
1967年、東京都立王子工業高等学校機械科を卒業します。東京都立王子工業高等学校は、かつて東京都北区滝野川にあった都立工業高等学校で2009年に閉校しています。高校時代についてもほぼ情報は得られませんでしたが、実家が貧しかったと語っていることや工業高校に進学していることから、高校入学時点で卒業後はすぐに就職をしようと考えていたのではないでしょうか。
1967年、東京八重洲にある商社に就職します。営業マンとして働いていたそうです。しかし翌年の12月、稲田小劇場で観た舞台に衝撃を受け、俳優の道を志します。かなり成績のいい営業マンだったため、会社に辞表を出した際には、強く留意されたといいます。
幼い頃から映画好きだった柄本さんですが、早稲田小劇場で舞台を観るまでは俳優という職業に興味がなかったのだとか。演劇の世界に入ろうと思ったきっかけは「青春の誤解です」と語っています。
──この世界に入ろうと思ったきっかけは。
「“青春の誤解”です。若いということは馬鹿ということでもある。調子に乗って、好きなことで一旗揚げてやろうなんてね。僕の場合はそれがアングラ演劇だったということ。
当時は小さな劇場があちこちにあって、その舞台にだったら自分でも出られると思ったんですね。そんな場所でアルバイトをしながらこの世界に入りました」
引用元:サライ.jp

舞台の世界を知ったことで人生が変わったんだね!
柄本明さんファンに聞いた、柄本明さんの10代で印象に残っている出来事


映画や演劇好きの両親に育てられたというエピソードが印象的でした。産まれた時から芸能の道に進むことが決まっていたようにも思えるからです。(30代女性)

劇団マールイで演技の勉強をしたという事実がすごいですね。昔から演技が好きだったということが分かり何だか嬉しかったです。(30代男性)

高校卒業後は商社で働いていた。私が小さい頃からたくさんのドラマに出ていて、今では日本のドラマになくてはならない存在になっているから。(20代女性)
20代
柄本明さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1974年(26歳):「自由劇場」に入団
- 1975年(27歳):即興芝居「マクベス12」に出演
- 1976年(28歳):「劇団東京乾電池」を結成
1974年、「自由劇場」に入団します。大道具のアルバイトをしている際に「自由劇場」の俳優、串田和美さんに声をかけられたことがきっかけで入団したのだとか。当時「自由劇場」には研究生として、高田純次さんやイッセー尾形さんらが所属していたそうです。
1975年、自由劇団の即興芝居「マクベス12」に出演します。「マクベス12」は柄本さんと笹野高史さん演じるゲイの囚人二人が護送車の中で手錠をかけられたままお互いをなじり合うというストーリーで、相談なしの即興で演じたといいます。この舞台を観に来ていた当時20歳の18代目中村勘三郎さんが「椅子から転げ落ちるほど笑った」というほどウケのよかった公演だったそうです。
1976年、ベンガルさん、綾田俊樹さんと共に「劇団東京乾電池」を結成します。柄本さんは劇団の座長となりました。「自由劇場」を退団し、「劇団東京乾電池」を結成した理由について、「もっとお笑いやくだらないことをやりたいと思って、自由劇場を脱走した」と語っています。
演劇の世界に入り、舞台で活躍するようになった20代の柄本さん。自ら劇団まで立ち上げてしまう行動力はさすがですね。

こうした下積みを経て演技力を身に着けていったんだね!
柄本明さんファンに聞いた、柄本明さんの20代で印象に残っている出来事


自由劇場に参加したことが印象的でした。この出来事が、彼の俳優人生の大きな始まりだとも思えたからです。(30代女性)

NHKで大道具のアルバイトに明け暮れたというエピソードを聞いて下積み時代はやっぱりあったんだと親近感が湧きました。(30代男性)

劇団東京乾電池を立ち上げる。バラエティ番組でよく見る高田純二さんもかつては劇団員の一人だったと知ってびっくりしたから。(20代女性)
30代
柄本明さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1980年(32歳):ドラマ「探偵物語」に出演
- 1982年(34歳):映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」に出演
- 1986年(38歳):映画「キネマの天地」に出演
1980年、日本テレビ系列のドラマ「探偵物語」に出演します。「探偵物語」は松田優作さん演じる私立探偵の工藤俊作が様々な事件を捜査していく模様を描いたドラマで、柄本さんは同シリーズに二回出演し、爆弾製造犯と珈琲ショップのマスターを演じました。
1982年、映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」に出演します。本作は「男はつらいよ」シリーズの29作目で、柄本さんは著名な陶芸家の弟子・近藤を演じました。その後、同シリーズの41作目「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」(1989年)にも出演しています。
1986年、映画「キネマの天地」に出演します。本作は1934年頃の松竹蒲田撮影所を舞台に、映画作りに情熱を燃やす人々の人生を描いた物語で、映画「男はつらいよ」に続き山田洋二監督作品への出演となりました。作中で柄本さんは、佐伯監督役を演じています。
舞台にとどまらず数多くの映画やドラマへと活躍の場を広げた30代の柄本さん。また、子供向けテレビ番組「ひらけ!ポンキッキ」にも出演していたことがあるそうです。

ジャンルにとらわれず色々なことに挑戦していたんだね!
柄本明さんファンに聞いた、柄本明さんの30代で印象に残っている出来事


子ども向け番組の『ひらけ!ポンキッキ』でお兄さん役を務めていたことが印象的でした。彼のお兄さん役を、リアルタイムで見てみたかったからです。(30代女性)

映画や舞台に出演しだす姿が印象的ですね。この辺りから演技派としての一面を開花させていったのですごいと思います。(30代男性)

「ひらけ!ポンキッキ」に出演。大御所らしい貫禄と風格がある柄本さんなので、子供向け番組に出ている姿が全く想像できなかったから。(20代女性)
40代
柄本明さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1992年(41歳):映画「空がこんなに青いわけがない」で監督を務める
- 1993年(42歳):一人芝居「煙草の害について」を上演
- 1996年(45歳):映画「Shall we ダンス?」に出演
1992年、映画「空がこんなに青いわけがない」で監督を務めます。本作はあるサラリーマン一家の日常が崩壊していく様を描いた物語で、柄本さんにとって初監督作品となりました。舞台の演出は多くこなしてきた柄本さんですが、監督には難しさを感じたそうで、悪戦苦闘の末、撮影は終了。編集前のフィルムの試写中に気を失い、救急車で運ばれるというアクシデントがあったそうです。監督については「もう二度とやりません」と語っています。
「映画監督の『スタート』の一声には、何かが宿っている。やっぱり尊敬するに足る職業だよ。ぼくはもう二度とやりません」
引用元:MSN産経ニュース
1993年、一人芝居「煙草の害について」を上演します。構成・演出を手がけ、柄本さん自ら出演した本作はアントン・チェーホフの20分の短編戯曲をもとに、他の作品も取り入れて1時間ほどに作り上げられました。柄本さん演じる初老の男が、妻に命じられ、煙草の害についての講演をするというストーリーで、1993年の初演以降、長年にわたり上演されています。
1996年、映画「Shall we ダンス?」に出演します。本作は役所広司さん演じる平凡なサラリーマンが社交ダンスと出会って人生を見つめなおす姿を描いた物語で、日本アカデミー賞をはじめ数多くの賞を受賞した大ヒット作です。柄本さんは探偵事務所所長・三輪徹を演じました。
監督や、一人芝居など様々な挑戦をしていた40代の柄本さん。ドラマ、映画にも多数出演し、その独特の存在感で多くのファンを得たのではないでしょうか。

観る人の心を動かす演技力は唯一無二だよね!
柄本明さんファンに聞いた、柄本明さんの40代で印象に残っている出来事


ドラマ『鬼平犯科帳』の出演が印象に残っています。主演ではないのに、出るたびに強烈なインパクトがあったからです。(30代女性)

志村けんさんと交流していた姿をすごく覚えています。個人的にコントでのやり取りにすごく面白さがあって最高でした。(30代男性)

柄本佑・時生兄弟が誕生。お二人ともお父さんと同じく俳優として活躍されていて、芸能一家としても有名だから。(20代女性)
柄本明の若い頃の髪型はカールヘア

柄本明さんの若い頃の髪型といえば、おしゃれなカールヘアを思い出す方も多いのではないでしょうか。
柄本明さんの若い頃。息子さんがソックリ! pic.twitter.com/D10Kx0JTRt
— 男はくらいよあの娘にアタック!監督さそり (@sasorikantoku) May 30, 2018
ストレートの短髪といったイメージが強いですが、パーマをかけおしゃれを楽しんでいた時期もあったんですね!そして、息子である俳優・柄本佑さんにとてもよく似ています。
柄本さんが20代だった1970年代には男性の間でウルフカットやパンチパーマをかけたスタイルが流行していたそう。柄本さんのヘアスタイルを見ると、流行に関係なく自分の好きなスタイルを貫いていたように見えますね!

自分らしさを持っているのがかっこいいね!
まとめ

今回は、柄本明さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。