音楽家として活躍する坂本龍一さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、坂本龍一さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
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坂本龍一のデビューのきっかけや時期は?
坂本龍一さんのデビューのきっかけは、1975年の大学院在学中に友部正人の『誰も僕の絵を描けないだろう』にピアノで参加し、スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせました。
友部正人のこの曲が坂本龍一の初の仕事だった。まだ二十代そこそこだった彼は長髪にジーンズ姿で、その後ユキヒロさんにレクチャーを受けて服のセンスを磨いたとか。『誰も僕の絵を描けないだろう』の裏ジャケに収まる、何処か粋がった様な教授の姿が、強く印象に残っている。https://t.co/HZOaxvRhbC pic.twitter.com/hrrVhyQuWk
— noirse (@noirse) April 2, 2023
大学院在学中から活動し始めたんだね!
その後、1978年2月に細野晴臣さんのソロアルバムに参加したことがきっかけで、高橋幸宏さんと共にYMOを結成し活動を開始します。
また、同じ年の10月、坂本龍一さん初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、正式にソロ・デビューも果たしました。
1978年10月25日
— nico (@nico40984150) October 24, 2022
坂本龍一 / 千のナイフ リリース
教授ソロ初期の代表作。全てが尖っていた時期、凄まじいテンションが途切れない。YMOへの参加と重なり多忙さと創作意欲も沸点に達する。まずは聴くべし。 pic.twitter.com/tq8zoXwgeR
坂本龍一の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
坂本龍一さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
坂本龍一さんの通っていた幼稚園では、音楽教育が重視されており、3歳からピアノを習いました。その幼稚園で初めての作詞作曲を経験します。
夏休みにウサギの世話をした後、「動物のお世話をした時の気持ちを歌にしてください」という課題で「ウサちゃんのうた」を作ったようです。
昨日から読んでいる本
— 和歌山市ハーモニーピアノ教室 (@satoko_harmony) May 2, 2023
坂本龍一さん著
「音楽は自由にする」
初めての作曲は幼稚園児の頃だそうです。ウサちゃんのうた🐇
どんな歌だったのでしょうね😊#和歌山市ピアノ教室#和歌山市#ピアノ教室 pic.twitter.com/EVf0hSBTax
幼稚園の時に作詞作曲していたなんて、幼少期から音楽の才能にあふれていたんですね。
幼稚園までバスと電車を乗り継いで、一人で通っていたんだって!
10代
坂本龍一さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1962年(10歳):東京芸術大学教授の松本民之助に師事し、作曲を学び始める
- 1966年(14歳):ドビュッシーの音楽に出会い、大きな影響を受ける
- 1970年(18歳):東京藝術大学に進学し、民族音楽や電子音楽を学ぶ
坂本龍一さんは、一度聴いた曲を難なく弾きこなすなど神童ぶりを発揮していたようです。
1度聴いた曲はそのままスラスラと弾いてしまうなどの神童ぶりを見せていたそうです。『練習はキライだった』と言っていましたが、当時から誰もが一目置いていたよう。
「引用元:ENCOUNT」
坂本龍一さんは、自分自身はドビュッシーの生まれ変わりに違いないと思っていたとのことです。
民族音楽学者、小泉文夫さんの授業には必ず出席していたようです。また、在学中に電子音楽に出会い、坂本龍一さんの音楽的視野を大きく広げることになりました。
音楽の勉強はなおざりにすることがなく、とくに民族音楽と電子音楽の勉強には貪欲だったようだ。
「引用元:文春オンライン」
色々な音楽との出会いがあったことで、その後の名曲が生まれたのかもしれないですね。
作曲に数学的な手法を取り入れてたんだって!
坂本龍一さんファンに聞いた、坂本龍一さんの10代で印象に残っている出来事
新宿でサブカルチャーに触れて音楽を学んだということを知って驚きましたね。昔から大天才だと思っていたのですが結構下積もあったのですね。(30代男性)
10歳から作曲を始めていたことが印象的でした。幼い頃から音楽の英才教育を受けていたと思うので、彼の音楽は才能だけで作られたものではないと思ったからです。(30代女性)
東京芸術大学へ入学したことです。普通の大学ではなくここへ進学したことから、学生時代からアーティストとして活躍するつもりだったんだなと感じました。(50代男性)
20代
坂本龍一さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1978年(26歳):イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)結成
- 1979年(27歳):4人組コーラス・グループ「サーカス」の「アメリカン・フィーリング」のアレンジで日本レコード大賞編曲賞を受賞
- 1980年(28歳):「うるせーぞ、この野郎!」と観客を怒鳴りつける
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は、細野晴臣さん、高橋幸宏さん、坂本龍一さんの3人によって結成されたグループです。シンセサイザーやコンピューターを使い革新的な音楽でテクノポップの先駆者となりました。
日本レコード大賞編曲賞の受賞は、坂本龍一さんにとって主要な賞での最初の受賞となりました。アレンジャーとしも高く評価され、音楽業界にその才能を示しました。
#坂本龍一の隠れた名曲
— いとうちゃん (@itochan_1972) April 11, 2023
サーカス「アメリカン・フィーリング」編曲を彼が担当。1979年「日本レコード大賞」編曲賞受賞。
「ライディーン論争」が勃発する昨今、アレンジャーとしての坂本龍一の功績をもっと再評価してほしいところ。 pic.twitter.com/SUMja4N0wi
YMO人気絶頂期、日本武道館でのイベントにおいて、観客は「演奏やれ!」と野次を飛ばしたようです。それを受けて、坂本龍一さんは「うるせーぞ、この野郎」と言ったとのことです。
これに怒った坂本龍一(このとき女装姿で登場していた)は、冒頭にあげた「うるせーぞ、この野郎」や「ぶっ飛ばすぞ、この野郎」などといった言葉で応酬したのだった。
「引用元:文春オンライン」
世界的に有名な坂本龍一さんですが、若い頃は尖った一面があったのですね。
YMOファンの間では「武道館事件」と有名な話みたいだよ!
坂本龍一さんファンに聞いた、坂本龍一さんの20代で印象に残っている出来事
YMOとしてデビューしていたことが印象的でした。今までのJ-POPとは違った曲調のものが多かったので、今聴いても印象に残るものが多いからです。(30代女性)
東京芸術大学時代にミュージシャン活動を開始したというのが大きいですね。彼は昔から音楽に没頭するタイプだったようで教授として風格がこの頃から現れていますね。(30代男性)
はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』を発表したことです。ここから音楽家としての本格活動が始まったんだなと驚きました。(50代男性)
30代
坂本龍一さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1983年(31歳):映画「戦場のメリークリスマス」英国アカデミー賞 作曲賞受賞
- 1983年(31歳):YMO解散(散開)
- 1988年(36歳):映画「ラストエンペラー」米国アカデミー賞作曲賞受賞
坂本龍一さんは、大島渚監督に出演依頼を受け、俳優としてもデヴィット・ボウイさんやビートたけしさんと共演しました。日本人として初めてアカデミー賞作曲賞を受賞しました。
大島渚監督『戦場のメリークリスマス』(1983年)を観た。デイヴィッド・ボウイ、坂本龍一、北野武らが出演とか、カンヌ映画祭で最有力候補と目されたけど無冠に終わった、とかの情報だけでおなかいっぱいだと感じ、なんとなく観ないままできた本作。坂本の外見と音楽に魅了される鑑賞時間だった。 pic.twitter.com/E8DjEQ2wk3
— 横道誠 (@macoto_y) August 31, 2024
世界的に有名となったYMOですが、結成から5年後に解散という言葉ではなく「散開」を宣言しました。
坂本龍一さんは、映画「ラストエンペラー」にてアジア人初めて米国アカデミー作曲賞を受賞。この作品でゴールデングローブ賞作曲賞、グラミー賞作曲賞なども受賞しています。
「ラストエンペラー」にも出演、音楽を担当。この作品で米アカデミー賞の作曲賞やゴールデン・グローブ賞、グラミー賞に輝いた。
「引用元:読売新聞オンライン」
30代で数々の賞を受賞していたなんて凄い!この受賞で「世界のサカモト」と呼ばれるようになったみたいですね。
音楽家としてだけでなく、俳優としても活躍していたんだね!
坂本龍一さんファンに聞いた、坂本龍一さんの30代で印象に残っている出来事
ラストエンペラーでアカデミー作曲賞を日本人として初めて受賞したのが本当にすごいことですね。彼にしかできないことです。(30代男性)
日本人なのにアカデミー作曲賞を受賞したことが印象に残っています。世界的にも有名になった出来事なので、忘れられません。(30代女性)
映画『戦場のメリークリスマス』で音楽を担当したことです。これは今でも曲がテレビで放送されることもあるほどですし、感動的な曲を演奏できる人なんだって驚きました。(50代男性)
40代
坂本龍一さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1993年(41歳):YMO一時的に再結成(再生)
- 1994年(42歳):バラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』に出演
- 1999年(47歳):マキシシングル「ウラBTTB」発売
YMOの散開以来、初めて3人が都内のホテルに集まり「再生」が決定し、アルバム「テクノドン」を発売しました。また、単独公演として2日間の東京ドーム公演を開催しました。
坂本龍一さんは、バラエティ番組のコントに出演したことで、それまでの音楽家としてのイメージとのギャップに見ていた視聴者を驚かせたようです。
松本人志(59)演じるヒーロー「アホアホマン」の兄貴分「アホアホブラザー」として坂本さんが登場したことがあったのだ。
「引用元:エキサイトニュース」
収録曲「energy flow」はCM曲に提供され、オリコン週刊シングルチャートで1位になりました。
三共 リゲインEB錠CM。(1999)坂本龍一(『energy flow』坂本龍一)@retoro_mode pic.twitter.com/NWM0yEY1Hf
— minipops (@minipops5) November 10, 2022
「世界のサカモト」として偉大な音楽家としのイメージがありましたが、バラエティにも出演していたのは意外な一面だと思いました。
180万枚のミリオンセラーになったんだよ!
坂本龍一さんファンに聞いた、坂本龍一さんの40代で印象に残っている出来事
「ウラBTTB」の発売が印象的でした。今聴いても色褪せない名曲だと思います。切ないようなメロディーも大好きです。(30代女性)
HEY!HEY!HEY!でダウンタウンと共演した姿がとても印象に残っていますね。掛け合いが独特でめちゃくちゃ笑えたのも覚えています。(30代男性)
YMOを再結成したことです。YMOといえば坂本さんの代名詞なようなものですし、またYMO時代の快進撃が見れるのか!と驚いたものです。(50代男性)
坂本龍一の若い頃の髪型はテクノカット
坂本龍一さんの若い頃の髪型といえば、テクノカットの髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。
端正なお顔立ちなので、とてもよくお似合いです。音楽だけでなく、髪型も時代の最先端をいっている姿に多くの人が魅了されたのかもしれません。
テクノカットはYMOの大ヒットにより、その音楽ジャンル「テクノ」に由来しているようで、当時の若い人たちが真似をしていたそうです。
1979年、YMOの2作目「Solid State Survivor」は日本のテクノポップの先駆けとなり、赤い人民服やテクノカットが一大ブームを巻き起こしました「#SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人が鋤田さんとの撮影秘話を語ってくれます。いよいよ残り2日!#シネ・ウインド pic.twitter.com/uegmXZtABY
— 新潟上映熱烈希望!『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 (@bowiechikyu) July 11, 2018
髪型も流行るくらい大人気だったんだね!
まとめ
今回は、坂本龍一さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!