女優として活躍する泉ピン子さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、泉ピン子さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
泉ピン子のデビューのきっかけや時期は?
泉ピン子さんは日本音楽高等学校(現在の品川学藝高等学校)を中退し、1966年にウクレレ漫談家の牧伸二さんに師事。三門 マリ子(みかど まりこ)の芸名で歌謡漫談家としてデビューします。その後、キャバレー巡りなどの下積みを経て、日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のリポーターに起用されます。リポーターでの活躍を買われた泉さんは、1975年に東映からオファーを受け「神戸国際ギャング」に出演し、女優業に進出ました。
歌謡漫談家として長い下積み時代を経験していたんだね!
泉ピン子の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
泉ピン子さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
泉ピン子さんは1947年9月11日、東京都中央区日本橋に生まれます。本名は武本 小夜(旧姓:江口)さんといいます。浪曲師の父と女流浪曲師の継母という芸能一家に育った泉さんですが、幼少期は芸能人になりたいとは思っていなかったのだとか。しかし、母の従兄弟である宝塚歌劇団の振付師・河上五郎氏は泉さんを宝塚に入れるべく6歳から踊りとクラシックバレエを習わせたそうです。
泉さんは踊りのお稽古が嫌だったと語っていますが、そうした幼少期の経験が、のちの芸能活動に活きているのかもしれませんね。
芸能に囲まれた環境で育ったんだね!
10代
泉ピン子さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1960年(13歳):テレビ番組「歌まね読本」でチャンピオンになる
- 1963年(16歳):日本音楽高等学校に進学
- 1966年(18歳):歌謡漫談家としてデビュー
1960年、歌謡バラエティ番組「歌まね読本」に出演し、チャンピオンを獲得します。賞金は一万円で中学生の泉さんにとっては大金だったといいます。当時から人前に出るのが得意だったのではないでしょうか。
1963年、日本音楽高等学校(現在の品川学藝高等学校)に進学します。日本音楽高等学校は日本最古の私立音楽学校で、島倉千代子さんや弘田三枝子さん、工藤静香さんなども同校の出身者です。音楽学校への進学を選んだことから、当時は音楽の道を目指していたのかもしれませんね。
1966年、ウクレレ漫談家の牧伸二さんに師事し、三門 マリ子の芸名で歌謡漫談家としてデビューします。デビュー後は全国のキャバレーなどをめぐり、過酷な下積み時代を経験したといいます。
ギャラは1本3000円と安めだったが、顔を覚えてもらうため、全国各地に足を運んだ。ときには、在来線を23時間かけて乗り継ぎ、東京から北海道まで向かうも、客が入らなかったことからドタキャンされたことも。
引用元:LINE NEWS
師匠である牧伸二さんの厳しい教えもあり、下積み時代には多くの苦労があったという泉さん。そうした経験から女優としても幅広い役をこなせるようになったのかもしれません。
キャバレーのどさ回りをしながら深夜は皿洗いのアルバイトをしていたのだとか!
泉ピン子さんファンに聞いた、泉ピン子さんの10代で印象に残っている出来事
歌謡漫談家としてデビューする。バラエティ番組でも芸人さん並の高いトーク力で笑わせてもらってきたから。(20代女性)
歌謡漫談家としてデビューしたという話を聞いてやっぱり昔から才能は嘘をつかないんだと強く思いましたね。売れるのは必然ですね。(30代男性)
歌謡漫談家としてデビューしたことです。てっきり女優として俳優活動を頑張っていると思っていたので、最初は漫談家からのスタートだったんだと驚きました。(50代男性)
20代
泉ピン子さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1975年(28歳):ワイドショー「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のリポーターに起用
- 1975年(28歳):映画「神戸国際ギャング」に出演し、女優業に進出
- 1975年(28歳):テレビドラマ「花吹雪はしご一家」に出演
1975年、日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」のリポーターに起用されます。同時に芸名を泉ピン子へ改名。芸名は、父親が「芸人にはピンからキリまであるのだから、志しの一番なピンの芸人になれ」と泉さんに話したことや、「顔が丸くて麻雀牌のイーピンみたいだから」といった理由からつけられたそうです。
同年、東映からオファーを受け、映画「神戸国際ギャング」に出演し女優業に進出します。本作は神戸を舞台にギャング達の抗争を描いた映画で、高倉健さんや菅原文太さんなどそうそうたる俳優陣が出演していました。泉さんは「テレビ三面記事 ウィークエンダー」での活躍を買われてのオファーだったといいます。
同年、TBSのテレビドラマ「花吹雪はしご一家」に出演します。当時TBSの演出家・鴨下信一氏が「美人でなく、知的でもなく、金もない“3ナイ女優”を探していた」とのことから、泉さんに声がかかったそうです。
ワイドショーのリポーターに起用されたことをきっかけに、立て続けに女優の仕事が舞い込んできた泉さん。長い下積み時代を経てようやく才能が花開いた20代でした。
リポーターの仕事をしていたのは意外だった!
泉ピン子さんファンに聞いた、泉ピン子さんの20代で印象に残っている出来事
1975年に映画「神戸国際ギャング」で女優デビュー。芸能界入りのきっかけが演技ではなかったことに驚いたから。(20代女性)
芸名を泉ピン子にして活動し始めたということを知って最初は違かったんだと驚きました。麻雀のイーピンからとったというのも意外でした。(30代男性)
新日本婦人の会が選ぶ「ワーストタレント1位」に選ばれたことです。いまだと頼れる母的な素敵な印象を受けますけど、当時はワースト1位という最低な評価を受けていたんだと驚きました。(50代男性)
30代
泉ピン子さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1977年(30歳):歌手としてデビュー
- 1980年(33歳):ドラマ「手ごろな女」で主演を務める
- 1983年(36歳):NHK連続テレビ小説「おしん」に出演
1977年、歌手としてもデビューし、作詞を藤公之介さん、作曲を小林亜星さんが手がけた「哀恋蝶」が発売されます。デビュー曲にして、10.9万枚を売り上げるヒットとなりました。
1980年、日本テレビのドラマ「手ごろな女」で初の主演を務めます。泉さんは脚本を務めたジェームス三木さんの意向によって主演に抜擢されたそうです。明るい性格で働き者のヒロイン・島宗詩子を演じました。
1983年、NHK連続テレビ小説「おしん」に出演。主人公おしんの母親を演じ、女優として高い評価を得ます。本作の脚本を手掛けた橋田壽賀子さんにも高く評価され、以降は橋田作品に数多く出演することとなります。
歌手や女優として活躍の場を広げ、その実力を評価されていった30代の泉さん。特に「おしん」は最高視聴率62.9%を記録し、多くの人が女優・泉ピン子を知るきっかけとなったのではないでしょうか。
「おしん」は世界中で人気の名作!
泉ピン子さんファンに聞いた、泉ピン子さんの30代で印象に残っている出来事
ドラマ「おしん」に母親役として出演。実際にドラマを見たことがない人でも「同情するなら金をくれ」というセリフは知っているくらい有名な作品だから。(20代女性)
おしんでの演技にかなり魅力を感じましたね。やっぱり彼女を語る上では外せない作品なので本当に素晴らしいです。(30代男性)
NHK連続テレビ小説『おしん』の母親役をされたことです。この作品に出たことで泉ピン子さんが大ブレイクしたといっても過言ではないですし、印象に残っています。(50代男性)
40代
泉ピン子さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1987年(40歳):ドラマ「おんなは一生懸命」で主演を務める
- 1989年(41歳):結婚
- 1990年(43歳):ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に出演
1987年、橋田壽賀子ドラマ「おんなは一生懸命」で主演を務めます。本作は泉さんの半生をモデルとした作品で、泉さん本人が主人公の神野桃と、主人公の実母役を演じました。
1989年、消化器内科医の武本憲重さんと結婚します。しかし意外にも、結婚前は「結婚して夫の世話を焼くような不自由な生活をするなんてまっぴらだ」と思っていたのだとか。結婚を後押ししたのは友人である西田敏行さんだったそうです。
1990年、TBSのドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に出演します。本作では夫とともに中華料理屋「幸楽」を支える小島五月を演じました。「渡る世間は鬼ばかり」は放送開始以降30年近くもの間シリーズ化され、泉さんの代表作の一つとなりました。
女優として数多くの作品に出演し、「渡る世間は鬼ばかり」など代表作にも巡り合った40代の泉さん。その存在感やリアリティのある演技に引き込まれました。
お金も稼げるようになり私生活でも充実した日々を送っていたのだとか!
泉ピン子さんファンに聞いた、泉ピン子さんの40代で印象に残っている出来事
ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」シリーズがスタート。好きすぎて小説版まで読むくらいどハマりしたドラマだったから。(20代女性)
渡る世間は鬼ばかりでの演技がとても大好きですね。ごく普通の主婦として毎日を精一杯生きている姿に感動しました。(30代男性)
『渡る世間は鬼ばかり』に出演したことです。家族・親族間のトラブル、嫁の辛さ、食堂経営の大変さ等を見事に表現しており、凄く印象に残りました。(50代男性)
泉ピン子の若い頃の髪型はくるくるパーマヘア
泉ピン子さんの若い頃の髪型といえば、ボリュームのあるパーマヘアを思い出す方も多いのではないでしょうか。
泉ピン子さんの若い頃、少し伊藤沙莉さんに似た雰囲気を感じる☺️ pic.twitter.com/w8IKoxmZAY
— sora3 (@miiu1_n) January 17, 2025
インパクトがあり、泉さんの個性的な雰囲気によく似合っていますね!
泉ピン子さんが若い頃の1960~1970年代は女性の間でパーマヘアが流行しており、多くの女性が様々なパーマ姿を楽しんでいた時代です。そのため泉さんも人前に出る職業柄、おしゃれの一環としてパーマをかけていたのではないでしょうか。
レトロな雰囲気が素敵だね!
まとめ
今回は、泉ピン子さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。