【画像】高倉健の若い頃がイケメン!20代の写真が瑛太に似てる?

俳優や歌手として活躍していた高倉健さん。

若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。

さっそく、高倉健さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。

著:小田 貴月
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目次

高倉健のデビューのきっかけや時期は?

デビューのきっかけや時期

高倉さんは大学時代に知人のつてで、当時、美空ひばりさんらが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けます。

そこに居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサーでもあったマキノ光雄さんにスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社することとなります。

その後わずか1か月半で主役デビューが決定します。通常1年ほどのレッスンが必要とされる中、異例のスピードデビューとなりました。

東京で有り金を使い果たし、布団まで質に入れた生活。困り果てて、大学の恩師に紹介された芸能プロダクションに就職するため、面接に行った喫茶店でたまたま居合わせた東映の専務に「俳優にならないか」と声をかけられたのが、すべての始まりでした。

引用元:withnews

ねこ太郎

素質が認められたのかもしれないね!

高倉健の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り

高倉健さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。

幼少期

高倉健さんは1931年2月16日、福岡県中間市に生まれます。本名は小田剛一(おだたけいち)さんといいいます。元軍人で炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた父と教員だった母のもと、4人兄弟の次男として裕福な幼少期を過ごしていたそうです。

幼少期の高倉さんは肺を病み虚弱でしたが、中学時代ボクシングに興味を持ち、自らボクシング部を作るなど熱心に取り組み、戦績は6勝1敗だったのだとか。ボクシングとの出会いを経て、肉体的に強くなっていったのかもしれませんね。

クールで寡黙なイメージの高倉さんが子供時代ボクシングに打ち込んでいたのは意外ですね。終戦を迎えた中学時代、アメリカの文化に興味をもったことがきっかけだったそうです。

ねこ太郎

英語も学んでいたそうだよ!

10代

高倉健さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1945年(14歳):終戦を迎える
  • 1946年(15歳):福岡県立東筑高等学校に進学
  • 1949年(18歳):明治大学商学部商学科へ進学

1945年、高倉さんが中学生の頃終戦を迎えます。同時にアメリカ文化に触れる機会が多くなり、ボクシングと英語に興味を持つようになります。中学では学校に掛け合いボクシング部を作ったといいます。

1946年、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科に進学します。高校時代はESS部(English Speaking Societyの略)を高倉さん自ら創設し、かねてより学んでいた英語力に磨きをかけていきます。英語への熱意が伝わりますね。

1949年、明治大学商学部商学科へ進学します。当時は貿易商を目指していました。中学時代から英語に触れていたのも貿易商という夢に繋がった要因なのではないでしょうか。

中学生という多感な時期に終戦を迎え、アメリカの文化に触れたことでボクシングや英語に惹かれていった高倉さん。その後の俳優人生にも活きてくる経験を積んだのではないでしょうか。

ねこ太郎

自ら部活を立ち上げるなど行動力のある人だったんだね!

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高校時代にESS部を設立する。当時の日本で考えると英語を学んでいる人はまだまだ珍しい時代だったと思うから。(20代女性)

ネット上の人物

幼少の頃、虚弱体質だったということを知って意外性を感じました。すごく身体が頑丈そうなイメージだったのでビックリですね。(30代男性)

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明治大学商学部商学科へ進学したことです。当時は貿易商を目指して進学したとのことなので、最初から俳優になりたいわけではなかったんだと驚きました。(50代男性)

20代

高倉健さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1955年(24歳):スカウトを受け、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社
  • 1956年(25歳):映画「電光空手打ち」で主役デビュー
  • 1959年(28歳):歌手の江利チエミさんと結婚

1955年、大学時代に知人のつてで、当時、美空ひばりさんらが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けます。

そこに居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサーでもあるマキノ光雄さんにスカウトされ東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社します。その後、わずか1か月半で異例のスピードデビューを果たします。

1956年、25歳で映画「電光空手打ち」で主役デビューを果たします。同時に「高倉健」という芸名をつけられます。高倉さん自身は元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、当時初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったといいいます。

1959年、歌手で女優でもあったの江利チエミさんと結婚します。しかし親族間のトラブルなどから12年後に離婚することとなります。その後高倉さんは生涯独身を貫いたそうです。

スカウトから間もなく異例の速さでデビューを果たした高倉さん。しかし当初、俳優の道は本望ではなかったのですね。

ねこ太郎

これほどの大物俳優になることは本人も想像していなかったかも!

高倉健さんファンに聞いた、高倉健さんの20代で印象に残っている出来事

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芸能事務所のマネージャーになるため面接を受ける。マネージャーになるつもりが俳優としてスカウトされるなんて何ともドラマチックな展開だから。(20代女性)

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東映に入社したということを知ってこの頃からスターとしての片鱗が見え隠れしていたのがすごいですね。やっぱりオーラは隠せません。(30代男性)

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映画『電光空手打ち』で主役デビューしたことです。これが初の主役ですし、ここから高倉健さんの俳優人生が本格化してきたんだろうなって印象的でした。(50代男性)

30代

高倉健さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1964年(33歳):映画「日本侠客伝」で主役を務める
  • 1965年(34歳):映画「網走番外地」で主演を務める
  • 1966年(35歳):映画「昭和残侠伝」シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』が大ヒット

1964年、映画「日本侠客伝」で降板した中村錦之助さんに代わり、高倉さんが主役を務めます。高倉さんの寡黙な立ち姿と眼力によって東映任侠路線でその威力を発揮しました。

以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さないよう、禁酒や筋力トレーニングを行うなど真の映画スターとしての生き方を貫きました。

1965年、映画「網走番外地」で主演を務め、高倉さんの人気を決定づける作品となります。映画と同時に高倉さんがリリースした主題歌も話題となり、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になってしまいましたが公称200万枚を売り上げました。

1966年、高倉さん主演で上映されていたヤクザ映画シリーズの主題歌「唐獅子牡丹」が大ヒットします。そのストイックな男性らしさも相まって俳優だけでなく歌手としても当時人気絶頂だったことが伝わりますね。

任侠映画を中心に寡黙でストイックなイメージを確立していた30代の高倉さん。男女問わず多くの人が憧れる存在だったのではないでしょうか。

ねこ太郎

ストイックな姿がかっこいい!

高倉健さんファンに聞いた、高倉健さんの30代で印象に残っている出来事

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任侠映画スターとしての地位を確立。寡黙な男というイメージは高倉さんの最大の魅力だと思っていたので、その雰囲気によって苦労した時代もあったことに大変驚いたから。(20代女性)

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人生劇場飛車角という作品でさらに注目されていく姿が本当にすごいですね。高倉さんの無骨な雰囲気がこの作品には集まっています。(30代男性)

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『網走番外地』シリーズに出演したことです。この作品が高倉健さんをメジャーに押し上げたわけですし、印象に残っています。(50代女性)

40代

高倉健さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。

  • 1971年(40歳):アサヒビールのCMに初出演
  • 1977年(46歳):映画「八甲田山」で主演を務める
  • 1977年(46歳):映画「幸福の黄色いハンカチ」で主演を務める

1971年、アサヒビールのCMに初出演します。キャッチコピーは「飲んで貰います」だったそう。実はお酒を飲まない高倉さんですが、そのクールなイメージからCMに起用されたのかもしれませんね。

1977年、映画「八甲田山」で、北大路欣也さんとともに主演を務めます。北大路さんの台詞「天は我々を見放した」は当時の流行語になりました。また高倉さんは本作で第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞や第20回ブルーリボン賞主演男優賞など数多くの賞を受賞しています。

同年、映画「幸福の黄色いハンカチ」で主演を務めます。高倉さんにとって長年続いた仁俠映画からの転換点となった久々の人情ドラマへの挑戦となりました。本作でも第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞や第32回毎日映画コンクール男優演技賞など多数の賞を受賞し、実力派俳優としての地位を確固たるものとしていきます。

任侠映画からの転換点を迎えた高倉さん。寡黙ながらも人情味あふれる演技が多くの人の心をつかみ、数多くの賞を受賞しました。

ねこ太郎

撮影のために絶食するなどストイックな姿勢は変わらなかったのだとか!

高倉健さんファンに聞いた、高倉健さんの40代で印象に残っている出来事

アンケート調査結果
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東映を退社。俳優生命の危機も付きまとう退社なんて、芸能人の移籍がよくある現在ではありえない話だから。(20代女性)

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ヤクザ映画です大人気になっていくのが本当に素晴らしいですね。昔の男の生き様が完全に凝縮されています。(30代男性)

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1976年に東映を退社してフリーに転向したことです。いまと違って当時なら干させる可能性もあったろうに、勇気のある人だなって驚きました。(50代男性)

高倉健の若い頃の髪型は男性らしい短髪

高倉健さんの若い頃の髪型といえば、男性らしいすっきりとした短髪の髪型を思い出す方も多いのではないでしょうか。

昔気質で無骨な男性というイメージとぴったりでとても似合っていますね!

任侠映画に多数出演した影響もあり、世間から求められるイメージに合った短髪姿を貫いていたのではないでしょうか。

ねこ太郎

男性らしさの象徴のような存在だったよね!

まとめ

まとめ

今回は、高倉健さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。

ねこ太郎

年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!

2014年11月10日にこの世を去った高倉健さん。多くの人々を魅了した日本を代表する名優であり、その活躍はファンの心に生き続けると思います。

著:小田 貴月
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