女優、タレント、司会者、エッセイストなど多岐にわたる分野で活躍する黒柳徹子さん。
若い頃どんな風貌だったのかや、年代ごとにどんなできごとがあったのか気になるかたも多いと思います。
さっそく、黒柳徹子さんの若い頃の写真やできごと、デビューのきっかけを年代順に振り返ってみましょう。
黒柳徹子のデビューのきっかけや時期は?
黒柳徹子さんのデビューのきっかけは、NHK放送劇団の試験に合格したことです。
「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立ち、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけた劇団の俳優募集広告に応募しました。
Wikipediaに載ってる若い頃の黒柳徹子を見てマジかと思った。全然面影がない pic.twitter.com/7C7lXrmtkf
— 齊藤貴義@サイバーメガネ@練馬区光が丘と福島県相馬市で働くWebエンジニア@ChatGPT開発受託中 (@miraihack) May 5, 2020
面接試験では親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」、「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などのマイナスな発言を繰り返しましたが、6000人の応募者の中から見事に審査を通過しました。
そして日本のテレビ女優第一号となったのです。
面接官さんは黒柳さんのスター性を見抜いていたのかもしれないね!
黒柳徹子の幼少期は?若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返り
黒柳徹子さんの幼少期のエピソードや、若い頃の活躍やできごとを年代順に振り返っていきます。
幼少期
黒柳徹子さんはヴァイオリニストのお父様とエッセイストのお母様の下に生まれました。もともとは男の子だと思われていて「徹」と名付けられられる予定でしたが、女の子だったために「徹子」となりました。
他の同年代の子供と比べて落ち着きがなかったため、問題児というレッテルを貼られてしまいます。そして小学校一年生の時に退学させられてしまいました。
しかし転校先のトモヱ学園は自由な校風で、黒柳徹子さんはのびのびと学校生活を送ることが出来ました。
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう」
引用元:窓ぎわのトットちゃん
裕福な実家ではありましたが、戦時中であったために栄養失調に苦しめられることもありました。東京大空襲の際に青森県に疎開し、そこで魚を食べて回復したそうです。
自分に向き合ってくれる大人との出会いは人生に影響するよね!
10代
黒柳徹子さんが10代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1946年(12歳):香蘭女学校に入学
- 1951年(17歳):東洋音楽学校に入学
- 1952年(19歳):NHK放送劇団所属、プロとしての女優意識に目覚める
黒柳徹子さんは終戦後の混乱の中で香蘭女学校に入学します。当時はかなりのお嬢様学校で、多くの富裕者層の娘が通っていました。
香蘭女学校卒業後、黒柳徹子さんはお母様と同じ東洋音楽学校に進学します。オペラ歌手を志しますが、歌詞が覚えられなかったため断念。
音楽学校に在籍していた経験を活かそうと音楽評論家という道も考えましたが、ベートーヴェンの「悲愴」と「未完成交響曲」の区別がつかずこちらも諦めました。
未完成交響曲のどの部分と混ざっちゃってたのかな…?
あまり気乗りしないままに受けた劇団試験に合格してしまった黒柳徹子さん。しかし、テレビ放送のために来日していたNBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で視点がガラッと変わります。
「NHKのテレビ放送ではニュース、報道番組が主になると聞いている。世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる」と聞き、プロとしての女優意識に目覚めます。
黒柳徹子さんの原点といえるのかもしれないね!
黒柳徹子さんファンに聞いた、黒柳徹子さんの10代で印象に残っている出来事
10代の頃東洋音楽専門学校に通っていたということをテレビで話していたことを覚えています。音楽に精通していることを知らなかったので凄く驚きました。(30代男性)
第二次戦争中だったころです。のちのトットちゃんの話につながるからです。(40代女性)
戦争経験者というのは聞いたことがあります。戦争を経験して生き抜いてるだけですごいです。(20代女性)
20代
黒柳徹子さんが20代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1954年(21歳):自身が主演のラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」が開始
- 1961年(27歳):「夢であいましょう」に司会として出演
- 1961年(28歳):NHKを退社して演技を学ぶ
黒柳徹子さんは日本で最初のテレビ女優であり、日本のラジオドラマ史上初の子供の声を担当した大人の声優でもあります。NHK始まって以来初めてのオーディションで勝ち取ったトン坊役で、一躍有名になります。
大山のぶよ(ブー)、三輪勝恵(フー)、黒柳徹子(ウー)の「おかあさんといっしょ」の『ブーフーウー』 も観ていましたが物心つくかつかないかという時期でした。ブーフーウーのプラスチックの幼児用コップを使っていたのを思い出しました。 pic.twitter.com/h3ZjKsSGBz
— tangerine (@tangerine_2009) October 11, 2024
また、会話術にも長けていたので、子供向け番組やバラエティ番組に次々と起用されます。「夢であいましょう」では司会を務め、着実にキャリアを積むこととなります。
活躍の裏で、舞台出身俳優との演技力の差に思い悩んんでいた黒柳徹子さんは、NHKを退社して文学座付属演劇研究所に所属。演技をさらに学ぶ道を選びました。
黒柳徹子さんのお誕生日 💐
— ゲラ子。 (@gerako11e) August 9, 2024
1959 年 pic.twitter.com/X84YiY9XAz
20代で数多くの出演番組を持ち万事順調に思われるのに、女優としてさらに飛躍するためNHKをやめる決断をする心意気がとてもタフに思われますね…。
多忙を極めすぎて、過労で倒れたこともあるみたい…!
黒柳徹子さんファンに聞いた、黒柳徹子さんの20代で印象に残っている出来事
20代の頃にNHK放送劇団に入っていたことを知りました。演技のイメージが全くなかっなのでどんな芝居をしたのか知りたくて色々と調べたら凄く綺麗な女優さんで芸達者だったことが分かり驚きました。(30代男性)
今の黒柳徹子さんのイメージが強いですが、20代の黒柳徹子さんはモデルさんのような美しい容姿が印象的です。(40代女性)
日本人第1号の女優として、テレビに出演していたと聞きました。黒柳徹子さんはまるで人間国宝です。(20代女性)
30代
黒柳徹子さんが30代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1970年(36歳):ミュージカル出演を機にニューヨーク留学を決意
- 1971年(37歳):メアリーターサイ演技学校で初の東洋人生徒に
- 1972年(38歳):『13時ショー』で日本初の女性ワイドショー司会者に
1970年に出演したミュージカル「スカーレット」で、黒柳徹子さんはブロードウェイのスタッフと親しくなります。
その後作曲家のハロルド・ロームの夫人フローレンスさんに招かれ、さらに勉強するためニューヨークへ渡ることを決断します。
黒柳徹子さんは、プロの俳優に教えを乞うことが出来るメアリーターサイ演技学校で演技を学び、開港以来初の東洋人生徒となります。
この時に「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」と生まれたのが現在もトレードマークである「タマネギヘア」なのです。
アメリカ留学中の黒柳徹子さんは攻めててクール。
— Théâtre-JINBUN(テアトルジンブン) (@TJinbun) July 1, 2020
このとき洋服・和服どちらにも似合う髪型として「タマネギ」ヘアを考案したのである。 pic.twitter.com/30huki3aMg
「あなたのように1人でぷらぷらしている人の目で世の中を見て、そのままの感性で好きに話してほしい」というオファーを受けた黒柳徹子さんは、日本初の女性司会者ワイドショー、『13時ショー』のために帰国します。
日本の俳優としても当時異例のアメリカ留学。並外れた行動力ですね!
経験をすべてプラスに変えているみたいでかっこいいなぁ…!
黒柳徹子さんファンに聞いた、黒柳徹子さんの30代で印象に残っている出来事
ニューヨークへと留学していたという経験がおありだと知り驚きました。結構刺激的で1年間ニューヨークでの生活を満喫したようですごく興味が湧きましたね。(30代男性)
いちど日本をはなれて海外で生活されていたことがあるとお聞きしたことです。ずっと日本に滞在されていたと思ったので驚きました。(40代女性)
女優業を続けていたのかなと思います。この頃はまだ一人の女優と思うと感慨深いです。(20代女性)
40代
黒柳徹子さんが40代の頃の代表的なできごとはこちらです。
- 1976年(42歳):『徹子の部屋』が始まる
- 1978年(44歳):『ザ・ベストテン』が始まる
- 1984年(49歳):ユニセフ親善大使に就任
1976年に、『徹子の部屋』の放送が開始されます。黒柳徹子さんはこれを機会に「役を演じながら司会もやると混乱を招く」と一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになります。
初回から最終回まで司会を務めた音楽番組『ザ・ベストテン』は最高視聴率41.9%を記録する大ヒットとなります。
1970年代にはNHKのクラシック音楽番組の司会も務めています。黒柳徹子さんの早口は異例でしたが、そのトーク力や聞き上手さは随一でした。
伝説の音楽番組
— ホーちゃん🔍✨ (@Holmes_Channel) May 7, 2023
『ザ・ベストテン』制作秘話
・黒柳徹子さん&久米宏さん
圧倒的な司会力の凄さ
・西城秀樹さん
「ブルースカイブルー」
初のベストテン入り
・郷ひろみさん&樹木希林さん
「林檎殺人事件」
・桃井かおりさん
春の叙勲を受章した桃井かおりさん
▶️https://t.co/mqpNtDt7yE pic.twitter.com/vYIY4klQsP
また、児童への愛、障害を持つ人々や環境への広範囲な活動と実績からUNICEF親善大使に任命されます。
きっかけは著書「窓ぎわのトットちゃん」をユニセフ事務局長が読んだことだと言われています。アジアの人物として初めて就任し、今なお精力的に活動しています。
お茶の間からのイメージのために、留学までした演技の道をやめていたことがかなり衝撃です。
それでも司会としても成功するとはやはりさすがのマルチタレントですね!
『徹子の部屋』の放送回数はギネス世界記録なんだよ!
黒柳徹子さんファンに聞いた、黒柳徹子さんの40代で印象に残っている出来事
やっぱり徹子の部屋という冠番組が印象的ですね。今の徹子さんと喋り方が全く同じ感じなので本当に見ていて面白いです。テイストが昔と今で変わっていないところも素晴らしいです。(30代男性)
徹子の部屋です。今も放送されている徹子の部屋がすでにスタートされていたことです。(40代女性)
窓ぎわのトットちゃんです。私が覚えてる中でいちばん古い、読んだ小説ですが独特な雰囲気を今でも覚えています。なせだか少し怖さを覚えた記憶があります。(20代女性)
黒柳徹子の若い頃の髪型はタマネギじゃない!?
黒柳徹子さんと言えば、多くの人がタマネギヘアを思い浮かべると思います。
【すごい】黒柳徹子、『ふしぎ発見!』1722回皆勤賞だったhttps://t.co/XCXPK9xwSJ
— ライブドアニュース (@livedoornews) March 30, 2024
1986年4月の第1回放送からレギュラー解答者として出演し、特番も含めて皆勤賞。また「事前に答えを教わっていた」との"都市伝説"を否定し「図書館で1日中本を読んでいたこともある」と勉学のたまものだと明かした。 pic.twitter.com/XoSVaO676R
これは、
という黒柳徹子さんの考えが反映されているんです!
それではタマネギヘアではない、黒柳徹子さんの若い頃の髪型を紹介します。
御年90歳の黒柳徹子の若い頃美人だしキュートだし、ファッションも攻めてて可愛すぎてて、何度見ても5〜60年も昔って信じられない。 pic.twitter.com/fjQYfWRc6K
— ペニー・ペローナ (@KsiQQqjLrU3W5lt) December 27, 2023
こちらはニューヨークに留学していた際のファッションになります。
当時としてはかなり異色のコーディネートではあったそうですがかわいらしいです!今でも自身でスタイリングを行う黒柳徹子さんは昔からおしゃれだったのですね!
タマネギヘアは、黒柳徹子さんが大好きなマリー・アントワネットがモデルということなので、もしかするとこの髪型も誰かモデルがいるのかもしれませんね。
また個性的で好きだと、一時期ロングのセンター分けにしていたそうです。
しかし風が吹いて視界が遮られた際に車に轢かれかけ、危ないとやめてしまったんだとか。
今は特徴的な髪型の印象が強いけれど若いときも素敵だね!
まとめ
今回は、黒柳徹子さんの若い頃の活躍や出来事を、画像とともに振り返りました。
年代ごとに印象深い出来事がたくさんあったね!
これからの活動も頑張ってほしいと思います。